飯沼貞雄氏  白虎隊唯一の生存者

「河北新報」 昭和6年2月13日付

 

有名な白虎隊唯一の生存者飯沼貞雄氏は予て病気中のところ十二日午前五時三十五分市内光禅寺通の自宅に逝去した。享年七十八。






白虎隊唯一の残存者

飯沼貞雄氏、宿病と感冒で遂に逝く
三時代に更生した国宝的存在

「河北新報」 昭和6年2月14日付

 

当時を偲ぶ
飯沼貞雄氏は、宿病盲腸炎の再発と流行感冒に臥床、加藤主治医その他の手当も空しく遂に十二日午前、七十八の高齢をもって市内光禅寺通りの自宅に長逝した
慶応戊辰における断腸の哀史、維新奥羽戦記に名高い二十名の少年烈士会津白虎隊が、君家(くんか)の急に鉾(ほこ)を執って薩長土肥の錦片兵雲霞(へいうんか)の如き大軍を向うに廻し首尾両端を持する奥羽列藩の向背に悲憤の眦を決しつつ知死期に閃く

会津魂 雄々しくもぜん手よく飛燕(ひえん)の働きに敵(てきたん)を寒からしめながら、時の勢い又力及ばず、四面重囲の鶴ヶ城との連絡絶え、白壁の天守に炸裂する砲火の煙炎を望みつつ戸ノ口原の戦場より創痍(そうい)を包んで取って返し、僅かに残る飯盛山の松ヶ根に会津中将に十二万石御家安泰を祈りつつ、従容として或いは差し違い或いは腹掻き切って蕾の花を惜しくも又華々しく散らしてのけたことは最早三歳の童子と雖も知らぬものはない位余りに有名であり、更にまたこの二十烈士の自刃後
奇跡的に生命を取り止め藩士印出新蔵の妻に介抱されて山を降り、塩川の養生所或は小田付(喜多方町)の養生所の手厚い治療に気魄を旧に復し、白虎隊唯一の残存者として国宝的存在を見た、飯沼貞吉少年、年齢僅かに十六歳、君側護衛の重任を帯びた少年軍白虎隊の隊士として戊辰八月二十二日
 梓弓むかふ矢先はしげくとも
     ひきなかへしそ武士の道
一首をはなむけして玄関に笑顔で送る母堂の温容を見納めに、勇みに勇んで死出の戦場へまっしぐらに駈け出す、貞吉少年の初陣から戸ノ口原の激戦に敗れ敗れて飯盛山の永袂(えいべい)、篠田石田両少年の唱和する文天祥(ぶんてんしょう)が零丁洋(れいちょうよう)の詩を名残りに思い思いの自刃
飯沼貞吉少年も遅れてはならぬと脇差の鞘を払って咽喉深く突きさして碧血淋漓(りんり)悲愴な最期を遂げたにも拘らず、程なく生を蘇して明治大正昭和の三時代に更生の道を拓し逓信省に入って技師となり精勤数十年の勤務正五位勲四等に叙せられて大正六年功成り高蹈(こうとう)勇退して爾来光禅寺通りの自宅に悠悠自適の
生涯を送っていた翁の長逝は恰も国宝を失った感がある。


晩年の翁  遺骸は北山輪王寺に埋葬

翁は生前極めて白虎隊の事蹟を問われることを好まず、いや翁の謙譲な心境が当時の事情を誇らしげに語ることを好まなかったらしく訪問者は勿論家族の者にさえ決して回顧談をしなかった、もう二十年も前の事であったが、飯沼家に仕えていた翁の家来が、たまたま熱心な客の質問にポツリポツリと当時を語り出すと、翁はホロリホロリと涙を流して「今更それを言って何になる、もう話してくれるな」と座に堪えぬ模様があったそうだ、如何に深刻な思い出であったかが察しられる。
翁の自刃した傷痍は既に癒えたが盲腸炎に後半生を苦しめられたらしくそれに自分では神経痛の気味もあると言っていた、が手術後健康を回復し自適の生涯を送るようになってからは松、さつき、菊の盆栽趣味囲碁などに閑雅な生活を楽しみ、晩年に至ってはそれも止めて母堂の庭訓に倣って和歌の道にいそしみ号も昔を偲ぶ孤虎山人の名で選者点者の席に座ることもあり、雅懐が湧けば食事中でも箸を投げて帳手に認(したた)める事も度々あった。最近に至っては便秘、下痢等交々起って再び盲腸に膿を生じ食欲不進となり医師に対しても「もう俺の身体の機関はスッカリ碎れたのだ」とさびしく笑っていたが和歌の道は少しも飽まず孫さんに口授しては絶えず東都の歌檀に近什をものされていた、翁自らの筆になるもので最後のものは二年前飯盛山に建てられた会津烈婦烈女のためのなよ竹会の碑であった
(注1)

翁の詠じたもので有名なのは
 すぎし世は夢かうつつか白雲の
    空にうかべる心地こそすれ
の戊辰回顧と
 聖上摂政宮(せっしょうみや)
(注2)に在しし時白虎隊遺跡台臨の栄に感激の余り詠じた
 日の御子の御かげ仰ぎて若櫻
    ちりての後も春を知るらん

因に翁の葬儀は十五日午後一時市内北山輪王寺において執行、遺骸も同寺に埋葬さるる筈である


(管理人注記)
(注1)
なよ竹の碑は昭和3年12月に若松市内の善龍寺(飯盛山は間違い)に建てられたが、その歌碑の揮毫は飯沼貞雄による。
(注2) 摂政宮(せっしょうみや)は昭和天皇の皇太子時期に呼ばれた名称。大正13年に皇太子ご夫妻が飯盛山を行啓された時に感激して詠んだ歌で、その歌碑が飯盛山の飯沼貞雄墓地にある。



戻る