白虎隊実歴談 (七)

國分坊 著 「河北新報」 明治43年7月4日付

 

◎飯沼氏を助けたこの老媼は、元(も)と名に何のためにこの山へ上がったのか、氏の談によると、この老媼には、十六才になる息子があった。それが戦争が始まると同時に行方不明となった。老媼は頻りにその踪(あと)を探し廻っている途中、滝沢村の或る人から(注1)、飯盛山に多勢子供が死んでいた、ということを聞かされたので、若しやその中には、尋ぬる我が子も居やしまいかとそれでこの山へ上って見たのであった。つまり我が子と同じ年齢の少年が斃れて居たのを見て、痛く老(おい)の女心を動かしたものと思われる。
◎それから初めにも一寸(ちょっと)いうて置いたことだが、白虎隊の絵をして世に行わるるものの、最も確かなものが一種ある筈だ。というのは、氏父子(家厳は朱雀隊長なりしという)が東京に謹慎中、家厳(かげん)の隊に頗る画を善くするものがあった。その者の望みに任せて、氏は飯盛山に於ける白虎隊自刃の時の光景を語りて聞かせる。この実話に基づいて、その者が唐紙の全面に描いたものが、即ちそれなのである
(注2)。その後いろいろな絵も発行されたけれど、飛白(かすり)の着物を着てるのや、乃至(ないし)槍を持ってるのやなどは、全然事実でない。氏一人に就いてこれをいうて見ても、氏は筒袖の着物を着て、義経袴を穿いて居たのである。
◎一緒に自刃したのは、十六名であったのだが、その後有志者が記念碑を建つる際に、当時山麓に戦死して居た他の三名
(注3)を加えて、これを十九名としたのだそうな。
◎白虎隊に関しては、大概(たいがい)右にいうたような実情である。その忠勇義烈、これを近古に求めて、幾(ほと)んどその比を見ざるの壮挙であることは、今更いうまでもないが、読者はこの一面を見ると同時に、又他の一面、即ちあれ等の子弟が、平生如何なる家庭に養成されたかを見るの要がある。是を知るに於て、始めて彼の義挙の偶然でないことを知るに足るのである。
◎会津藩の子弟は、最も武士的教育を重んずるように、平生深く注意を払われたのである。幼少の時から、古(いにしえ)の忠臣勇士、例えば楠公(なんこう)とか弁慶とかの伝記は、よく繰り返して言い聞かされる。それでそれ等古武士の面影は、少年の頭に深い印象を刻み込んだものだ。武士は惰弱では駄目だ、人間は化物よりも強いものだ、というようなことは、少年の寝物語によく聞かされた。それで十二三歳にもなると、わざと深夜を選んで城外へ一人で使者にやられる。下女や仲間(ちゅうげん)若党などが居ても、決してこれを使わない。
◎又た一方には、学校に於ても、談話会
(注4)ようのものがあって、十日に一度ぐらいの割合で、屡(しばしば)集会を催す。そして互に意志を練る。勿論不良少年に対しては厳しい制裁を加える。手癖の悪いものには殊に厳しかったのだ。
◎生れて五歳になると、脇差を持たせられる。その時は古来の習慣として、碁盤の上に載せられて、裃(かみしも)を着せられる。そして脇差は昼夜身辺を離さない。便所へ行く時にもこれを離さない。丸腰は武士として非常なる耻辱(ちじょく)とされたのである。
◎ここに教育のことを精(くわ)しく語るの余裕もないが、要するに学校に於ては、最も精神的教育に重きを措(お)き、国のために死ぬることは武士として当然の義務であるという感念(かんねん)を、深く深く注ぎ込まれたのである。
◎一藩の順逆その方向を誤ったとか、何(ど)うとかいうことは、今更問うに及ばない。今日(こんにち)世の少年子弟にして、若しこれ等白虎隊の少年に学ぶべきことがあるとするならば、そは実にこの武士的精神即ち大義に殉ずる義務の感念でなければならぬであろう。(おわり)


(管理人注記)
(注1) 慶山村の渡部佐平のことと思われる。
(注2) 穂積朝春のこと。穂積は青龍隊士。なお、家厳は父親のことを謙遜していう場合に用いる言葉で、籠城戦では父時衛は青龍隊中隊長、白河戦では朱雀隊小隊長。
(注3) 戦死説のある伊東悌次郎、池上新太郎、津田捨蔵を指す。
(注4) 什、とりわけここでは「学びの什」のことと思われる。

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