白虎隊実歴談の後に書す

覆面散士 著 「河北新報」 明治43年7月5日付

 

想い起せば吾輩が未だ幼少の頃、祖父母父母の膝下(しっか)に在りて、常に忠孝の美談を聞き「お前も成人の後には是非斯(こ)ういうひと人に為らなければならないよ」と断(た)えず激励をされたもので、事務ん自分も亦斯ういう話を聞くのを此上(こよ)なき楽しみとして居ったものであるが、取り別け会津殉難十六士、即ち白虎隊の少年が、飯盛山で自刃をしたという話を聞く時は、何時(いつ)でも泣きながら聞いて居ったものじゃ、然らば何が悲しいのかというと、それは自分には少しも解らぬ、解らぬけれども何(ど)うしても悲しくて堪まらぬ、是れが真の感に打たれるというものであろう、斯(こ)ういう訳で、吾輩の脳底には今も昔も寸毫(すんごう)も変わらぬ深い深い一の印象が確実に沁み込んで居るのである。
吾輩の受けたる幼少からの教育系統は、重に斯ういう方面の系統が多かったので、習い終(つい)に性と為ったかして、今日(こんにち)でも卑怯卑劣な事をする奴等を見ると、どうしても右の手が承知をしない。此頃では、口や手にも充分に修養をする様に申し聞かせては置くが、未だ未だ恐らく確実な保証は出来ぬであろう。
白虎隊の話も久しく聞き絶えて居った所が、今回河北社の國分坊君(武蔵坊の後裔には非ず)が、当時十六烈士の一人たりし飯沼君の直話を備(つぶさ)に紙上に紹介をされたので、之れを読んだ散士は、また泣かなければならぬ訳となった。殊に散士は今赤穂義人の評論を書いて居る際であるから、この種の感が一入(ひとしお)深く、読み去り読み来って無限の感がある。
赤穂四十七士の殉難も、会津十六少年の殉難も、其の事(つか)うる所に殉じたる奉公の精神、犠牲の精神に至っては、共に是れ精忠日を貫くもの、帝国武士道の神髄を遺憾なく発揮し居ると共に、吾々後進の者をして感憤興起(かんぷんこうき)せしむる偉大なる一種の力を恵んで呉れたものである。時世固(もと)より異なっては居るが、唯其の発動の形式を異(こと)にするまでで、其の根本思想には少しも異動は無い。否(い)な飽くまで異動の無い様に永久に保有すべく努力をしなければならぬのは即ち此(この)一事である。
此頃「西洋武士道」という書物を見た所が、其の序文の中(うち)に斯ういう事が書いてある「武士道は非常時に処する道としては美なれども、平時に処する道としては不完全たるを免れぬと、秋元子爵が言われて、著者はそれを知言として信じて居る」と斯ういうのである。是れは唯だ武装的武士道の一面のみを知って、平和的武士道の一面を知らぬのである。帝国が二千年来養い来れる武士道は、決してそんなものじゃ無い。非常時に許(はか)り美なもので、常時に不完全なものであるならば、それは真の帝国武士道では無い、偽武士道である。帝国の武士道は、常時でも非常時でも、常に同一の作用を以て、或は陽に或は陰に、不断に活動をして居る。若しも西洋武士道著者の謂(い)うが如き不完全な武士道であるならば、武士道とは言えぬのである。武士道は常住不変である、斯くの如く速断する者は、須(すべか)らく武士道の発動の形式のみを見ずして、深く其の神髄を研究し咀嚼(そしゃく)せん事を切望する。
我輩は今や白虎隊の実歴談を読んで深く感ずる所のありし為め、特に此処に一言をしたのであるが、今日の青年学生は、其の根本の精神を常に此処に置かん事を切望して已(や)まぬ次第である。
我輩は左に殉難十六士の姓名と年齢とを記して実歴談の補遺に充てたいと思う。

篠田義三郎(兵庫の第二子、年十七)、西川勝太郎(久之助の長子、年十六)、津川喜代美(隼人の長子、年十七)、安達藤三郎(小野田雄之助の弟、年十七)、野村駒四郎(卯之助の弟、年十七)、簗瀬勝三郎(軍蔵の弟、年十七)、簗瀬武治(克吉の弟、年十七)、井深繁太郎(守之進の長子、年十六)、有賀織之助(衛士の弟、年十六)、間瀬源七郎(岩五郎の弟、年十七)、伊東俊彦(左太夫の第二子、年十七)、林八十治(忠蔵の長子、年十六)、永瀬雄治(丈之助の長子、年十六)、鈴木源吉(玄甫の第二子、年十七)、石田和助(龍玄の第二子、年十六)、飯沼貞吉(時衛の長子、年十六)


(管理人注記)
十六士の名前の漢字表記および年齢については諸説ある為、ここでの相違は省略します。
伊東(伊藤)俊彦の父は新作、のち亘。左太夫は伊東悌次郎の父。
永瀬雄治(雄次)は丈之助の第二子。
飯沼貞吉は時衛の第二子。



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