白虎隊実歴談 (六)

國分坊 著 「河北新報」 明治43年7月3日付

 

◎この山は、一藩の少年が常に遊び場所として居た所なので、白虎隊の面々にも、そこらの地理は、よく十分に知れてある。それで今日も、間道から敵を避けて山へ上ったのである。
◎十六名のうちの一人は、脚部に負傷して居たために、歩行が頗る難渋に見えた。戦友は互にそのものを労わりながら、途中弁天堂で小憩をして、更に頂上に登り着いた時は、日も既に高き午前十一時頃であった。
(注1)
◎遥かに城の方を見て見ると、ああ何事ぞ、城は今一面に炎々と燃え上がりつつあるのだ。そしてその方向に当りて、時々大砲(おおづつ)の音も烈しく聞かれるのである。
◎更に目を移して、我が住宅の方を見ると、昨日までも住み馴れて、見馴れて居たる杉林のあたりから盛んに燃え上がる火焔が、渦を捲いて半天に立ち騰(のぼ)るのが、明白地(あからさま)に望み見られるではないか。
◎万事遂に休せり、我が事既に了(おわ)れり。我等はこの際只だ国と共に死するの一あるのみ、
◎尤も中には、弾尽き銃折(つちお)れるまで奮闘して、然(しか)る上に潔く死ぬべきである、という議論をするものもあったのだが、隊長の篠田は、尚自説を取りて、この山に於て一同自刃しよう、と主張する。爾他(じた)の面々もこれに同意をして、遂に自刃ということに決した。
◎そこで一同は、城に向いて恭(うやうや)しく拝礼をし、この世に於ける最後の暇乞いをして、さて心静かに、或るものは腹を切った。又た或る者は喉を突いた。斯くして我が十六少年は、健気にも君国の難に殉じ、臣節を全うしたのである。時はこの月の二十三日午後四時頃であったという。
(注2)
◎飯沼氏は喉を突いたのである。突いた後は一切夢中であったが、少(しば)らくして冷気を感じた。又何か五月蝿(うるさ)いように感ずるものがある。やがて現(うつ)ともなく目が覚めて見ると、側には一人の見馴れぬ老媼(ろうおん)が居て、頻りに氏を呼んで居るが、氏は傷口からスウスウと風が通るように感じて、満足に口が利けない。それで傷口を押えて、僅かに己が氏名を告げた。老媼はこれを聞いて、且つ驚き且つ喜び、谷川の水を手拭に浸して、それを氏の口に含ませなどして、懇(ねんご)ろに介抱の上、氏を負うて山を下り、一と先ず岩小屋の中に入れてくれた。
◎老媼は取り敢えず城下へ帰って、城中の様子を探り、暗(やみ)の夜道を再び岩小屋へ引き返して来て、氏を白河方面
(注3)へ立ち退かせてくれた。若松城下には、既に敵が入り込んで居て、甚だ危険であったからである。そこで三里の間を、或はこの老媼に負われ、或は自ら歩行して(注4)、辛うじて只有(とあ)る宿屋へ着いた。
◎やがて医者が来て、傷口を縫う。その上へ赤い膏薬を貼ってくれたが、氏はその後(のち)も屡(しばしば)昏睡状態に陥っている間に、俄に騒々しい音がするので、又目が覚めた。
◎聞けば、長岡藩の兵二百名がこの宿へ泊ったのだという。その中の一人が偶々(たまたま)氏の泊まり合わせていることを聞いて、その傷状を見てくれたが、その治療の方法を誤っているのを見て大いに驚き、自ら更に傷口を解き、指を刺し込んで傷口を十分に洗って消毒をし、白い薬を溶いた水へ、純白な糸のようなものを浸して、それを傷口へ突っ込んでくれた。そしてこの療法を朝夕二度づつやられた。
◎一週間ばかりにして、傷は余程快くなったので、氏は更に喜多方の方面へ逃げて、或る名主の宅へ身を投じたが、その後父子共に東京(注5)に謹慎を命ぜらることになった。而して氏の一身は、ここに全く新たなる生面を開くことになったのである。


(管理人注記)
(注1) 篠田隊が飯盛山に辿り着いた時間、自刃した時間については諸説ある。
(注2) 午前11時に飯盛山に辿り着き、午後4時に自刃したとなると、5時間にわたって飯盛山に居たことになり、老媼の発見時刻との関係で辻褄が合わない。記者の誤解であり、自刃したのは12時頃と思われる。
(注3) 塩川方面の間違い。
(注4) 三里もの距離を背負ったり、自ら歩行したりというのは疑問。荷車説が有力である。
(注5) 会津藩士の謹慎場所は、年内は猪苗代で翌年1月から東京および高田となったので、ここは猪苗代の間違いであろう。

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