白虎隊実歴談 (五)

國分坊 著 「河北新報」 明治43年7月2日付

 

◎夜も更け初むる十時頃、隊長の日向は、敢死隊に用があるからと、その趣を篠田に告げて、一人隊を離れて出て行った。そのまま隊長は、遂に隊へ帰って来ない。(注1)
◎翌朝の四時頃、篠田が号令をして、一同を整列させる。点呼をして人数を調べる。この時までも隊長の日向はまだ帰って来ぬ。それを待って居た日には、徒(いたずら)に時機を失するの恐れがある。そこで篠田が代わりて指揮を執ることになった。一隊六十余名
(注2)の少壮軍、ことに新たなる勇を振るって、歩武粛々と前進する。夏の朝風涼しくも、草踏み分くる道の辺に、玉と砕けて散る露の、いのちを誰か惜しむべき。
◎行くこと十町
(注3)ばかりにして、前方の一(ひ)と叢(むら)木立の間に、正(まさ)しく敵の影が見える。而(しか)もなかなか優勢らしいのだ。
◎傍らを見ると、巾が三尺
(注4)ばかり、深さも三尺ぐらいな溝がある。これこそ屈強、時に取りての塹壕とばかり、一同は即ちこの溝へ身を隠して、不意に撃ち方を始めたのである。
◎三四発も撃ちつづけた頃、敵よりも盛んに応戦し始めた。而(しか)も刻一刻と非常に猛烈に撃ちかけて来る。殆ど面(おもて)を向けようもない程であった。それを少(しば)らくすると、左右の戦友は、或は傷つき、或は死ぬるという有様で、残念ながら衆寡敵せず、今は残り少なに撃ちならされて了(しま)った。
◎勢い如何ともする能(あた)わず、篠田は遂に退却を命ずる。やがて徐(しず)かに兵を纏(まと)めて、前夜露営した場所まで退却した。それからここで人数を点呼して見ると、この一戦に生き残ったものは、僅かに十六名である。即ち一隊の四分の一だけが、撃ち漏らされたのである。
◎この兵力では、到底再び事を為すに足らぬ。止むを得ず一たび城中へ引揚げよう、ということに一決した。
◎前(さ)きに敢死隊の居た宿(しゅく)へ戻り着いて見ると、それらしい人影は一人もなく、そして戦死者の死屍が、そこにもここにも取り残されてある。察するに、敵は既にこの辺まで進入して、我が兵を撃退したものらしい。満目凄愴(まんもくせいそう)、敵に蹂躙(じゅうりん)された一寒村の、戦敗の痛ましい光景は、更に我が一隊の恨(うらみ)を深らしむのであった。
◎乃(すなわ)ち道を転じて間道に入ると、この方面にも又た敵らしいのが出没する。試みに暗号を以て呼びかけて見ると、先方(さき)のものは一向に応答をしない。反(かえ)って此方へ撃ちかかって来る。
◎さては敵に相違ない。然るに我は今朝からの戦(たたかい)に十分疲れ切って居るのみならず、その人数は僅かに十六名というのだ。この上有効な戦闘をつづけ得べき見込もない。寧ろ如(し)かんや、一たび敵を避けて、而して城兵に合(がっ)せんには
◎ここに於て一隊十六名、更に道を転じて、左の方(かた)飯盛山に向かう。


(管理人注記)
(注1) 隊長日向内記は「食糧調達」のため隊を離れたとの説があるが、ここでは友軍との打ち合わせ、つまり「軍議」のためとしている。
(注2) 前掲(四)の通り、40名の誤りであろう。
(注3) 十町=1080メートル。町は丁と同じ。
(注4) 三尺=約90.9センチメートル。(一尺は約30.3センチメートル)

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