白虎隊実歴談 (四)

國分坊 著 「河北新報」 明治43年7月1日付

 

◎いよいよ進発の当日となった。一隊の将士は、粛々として若松城を出発する。先頭には白虎隊が進む。君公はその後から馬上ゆたかに打ち立たする。
◎午後の二時頃、瀧澤という所に着いた。本隊で少(しば)らく休息して、ここで始めて一隊の部署を定め、各々その位置に就くことになった。
◎未だ幾ばくならずして、戦地から退却した我が兵が、続々とここへ引上げて来るのに遇った。その状報によると、敵はますます進んで、今し石筵(いしむしろ)口まで押し寄せた、というのである。
◎君公はそれを聞いて、戦局の大いに非なるを感じた。それで一方には、二番白虎隊に進発の令を下すと同時に、君公自身には、ここから馬を回(か)えして、若松へ帰ることになった。そして一番白虎隊は、君公を護衛して、そのまま引返したのである。
◎この一番隊とか、二番隊とかいうのは、白虎隊の中(うち)の一部隊をいうので、この編成は、士中白虎隊も、又た寄合組白虎隊も、同じことであった。
◎飯沼氏等(ら)の所属は二番隊であって、元八十名の中隊編成であるけれども、この時は六十程の人員
(注1)であった。これが日向内記(ひなたないき)という人に引率されて、戸の口という所まで進んだ。
◎これより先き、この戸の口という所に
(注2)、一隊二百名ばかりの、敢死隊(かんしたい)というのがあった。これは神主やら、山伏(やまぶし)、僧侶の類のもの共を、臨時に駆り催したので、つまり国民軍とか、乃至(ないし)義勇兵とかいったようなわけであるから、元より軍隊としての訓練も何もあったものじゃない。従って兵器も、各自勝手なものを持って居たのだ。
◎白虎隊がここへ到着した時は、彼れ是れ午後の六時頃であった。そしてこの敢死隊と合併することになった。
◎然るに白虎隊の教導、即ち当今の特務曹長ぐらいな資格の男に篠田義三郎という仁(じん)がある。この男はなかなか確かな人物であったので、今この敢死隊と合併するという命令に対して、熱心に不服を唱えた。つまりそれをば、甚だ潔しとしなかったのだ。一隊六十名(注1)の面々も又た、一議に及ばずして、篠田の意見に賛成した。そこでこれを隊長に申し立てて、敢死隊と離れて独立の任務に就くことになった。そして更に前進したのである。
◎戸の口から横へ折れて、約二十丁
(注3)も進んだ頃、日は全く暮れた。折柄雨も降って来た。止むを得ず一夜はここに露営して、明くる朝の未明に、敵へ突貫することに決した。(注4)


(管理人注記)
(注1) 二番隊の人員は隊員37名に隊長・小隊長らを加えて約40名が定説となっている。
(注2) この場所は会津軍の宿営地で、滝沢―金堀―強清水(こわしみず)―戸ノ口原という行程を経て赤井谷地(あかいやち)に近い通称菰槌山(こもつちやま)と思われる。
(注3) 二十丁=2160メートル。
(注4) 白虎隊が露営した場所は、戸ノ口原の日本松街道近くで、「白虎隊奮戦の地」碑があるところと思われる。


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