白虎隊実歴談 (三)

國分坊 著 「河北新報」 明治43年6月30日付

 

◎白河口がいよいよ破れた。戦局はますます切迫して来た。士中白虎隊は始めて出動の命令に接したのである。満を持して久しく放たれなかった箭(や)は、今や将に弦を離れんとしつつあるのだ。
◎即ち白河口方面に於ける、我が軍の退却を聞くと同時に、君公は形勢の非情に急なるを感じた。而して戦局の進展を計る上に於て、この際自身の出馬を必要とすることを感じられた。それで士中白虎隊も又た、君公と共に進発することとなったのである。
◎斯くて士中白虎隊は、明くる日の正午まで、城中へ集合せよ、という命令を受けたのである。
◎かねて覚悟は十分に極(き)めてある。本(もと)より生還を期する身ではない。一隊の将士は、皆な勇躍してこの命令を受けたのだ。頃は八月の明け易き夏の夜ではあるが、如何に長く感じられたであろう。
◎ここで一寸(ちょっと)、飯沼氏の家庭をいうて置くが、当時氏の父なる人は、白河口の戦闘で戦死を遂げ
(注1)、叔父の一人は又た、これよりも先き伏見の戦闘で戦死を遂げた。それからその弟なる人は、これも白河口で負傷して、そのために遂に死んだという有様で、今ま家に残っているものの中(うち)、男子というのは只だ氏一人あるのみ(注2)、この外には母と祖母と、皆な婦女子ばかりであった。
◎進発の命令が、宇治氏の許へ達したのは、当今の午前九時頃であったろう。氏は取り敢えずこれを母堂に告げた。
◎母堂はこれを見て、幾度が首肯(うなず)かれつ、さて改めて屹(きっ)と容(かたち)を正して氏に向い、今度戦地へ出向いた上は、かねて言い聞かせてはあることだが、忘れても卑怯な真似はせまいぞ、逃げ隠れたりなどして、家名を辱(はず)かしめるようなことあっては、一身一家は勿論、会津藩の恥辱となることであるから、この義は十分によく心得て行くが宜(よ)い、と熱誠(ねっせい)をこめて氏を励ましてくれる。
◎それから尚(な)お母堂の言葉に従い、先祖代々の位牌を拝して暇乞いをする。次ぎには母方の叔父の西郷家
(注3)へも暇乞いをして、今は総べて遺るところなく、進発の支度も出来た。
◎この時、祖母なる人は、一首の和歌を作りて、氏の門出を祝される。母堂も同じく贐(はなむけ)の一首をよまれた。その歌は
    貞吉の出陣する時によみてつかわしける  玉章(たまずさ)
   梓弓向ふ矢さきはしげくとも
       引きなかへしそ武士(もののふ)の道
というのであるが、貞吉というのは即ち氏の幼名で、又た玉章というのは、母堂の名である。母堂は藩内でも聞こえた歌よみの家柄で、先年物故された山川将軍の令姉(注5)とは、従妹の関係(注4)があるそうだ。
◎山川将軍の令姉
(注5)は、名を唐衣(からきぬ)といい、後に九重の雲深く、畏(かし)こきあたりへ宮仕えする身となった時に
   思ひきや賤(しづ)がこの身も九重の
       みはしの花の香にふれんとは
とよまれて、深く陛下の叡感にあずかり、此上もなき殊恩を拝されたことは、当時世の人のあまねく知るところであったのである。


(管理人注記)
(注1) 父・時衛は戦死していません。
(注2) 貞吉(貞雄)のほかに弟・関弥(6歳)がいた。
(注3) 母の実家。西郷十郎右衛門近登之の長男の子、西郷寧太郎(貞吉の従兄弟)が家督を継いでいた。
(注4) 貞吉の母・玉章と山川将軍の母とは姉妹の関係。
(注5) 令母が正しく、「唐衣」は母の雅号。後に宮仕えしたのは山川将軍の令妹・操。


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