白虎隊実歴談 (二)

國分坊 著 「河北新報」 明治43年6月29日付

 

◎三方面の開戦と共に、いろいろな状報がくる。城中に居残っているものは、老人や女子に至るまで、皆な戈(ほこ)を執って起(た)つ的(まと)、最後の決心は有って居るものの、三方面の戦闘の経過に就いては、人も我も互に安き心もなくて、天の一方を望み見て居たのであった。
◎況(いわ)んや年少気鋭、逸(はや)り男(お)の白虎隊に至りては、戦地よりの状報に接する毎(ごと)に、坐(そぞ)ろに血湧き肉踊るの感に堪えないのだ。乃(すなわ)ち荐(しきり)に進発の命令を強請(せが)むけれども、仍(な)お容易にその命令が下らない。只だ毎日毎日演習をして、ますます兵を練るの外(ほか)は、更に他事を顧みないのである。この時の一隊の士気たるや、実に旺盛、その眼中には、既に薩長の軍を空(むな)しゅうするの概(がい)があったのである。
◎忽ちにして飛報あり、越後口は遂に破れたのである。同時に陣将狭(佐)川官兵衛から、援兵を要求して来た。
◎即ち寄合組白虎隊に対して、新発進発の命令が下った。そしてその戦地に於ける成績は、非常に優勢であったという。
◎日を経て、六七名の負傷者が後送されて来た。君公は取り敢えず学校の日新館を開放して、これを病院に充てた。士中白虎隊の面々は、日々交(か)わる交(が)わる、この負傷した戦友を見舞いながら、両軍戦闘の状況を聞いては、覚えず慨世(がいせい)の熱涙(ねつるい)を絞るのであった。
◎病院に於ては、幕府の典医で、当時江戸を脱走して会津に来ていた松本良順、即ち後に陸軍医総監となったところの有名な松本順先生が主任となって、専ら負傷者の治療に従事する。療法は無論、新式だ。先生の下(もと)には数多(あまた)の助手も居た。そして看護の方は、身分の上下を問わずして、藩臣の妻又は娘が、それを引受けて熱心に従事したのであるが、これなども当今の赤十字、若しくは婦人会の事業と全く趣きが似て居たのだ。
◎又た一方を見ると、日新館の一隅には男女の老人や或いは不具者などが、互に援(たす)け合いながら、懸命となって弾薬の製造に従事してる一団がある。これ等の人々の面(おもて)には、何れも愛国の色が溢れて居る。そして時々口唇を漏るる吐息には、敵を呪う熱烈な気を吐きつつあるのである。
◎士中白虎隊の一隊は、この時まで尚(な)お城中に残って居た。日々演習をしながら命令の下るのを、今日か明日かと、待ちつくして居たのである。
◎時に五月五日、大風雨に乗じて、薩長の軍は犇々(ひしひし)と白河口に攻め寄せた。
(注) この城には、二本松、棚倉、その他奥羽十八藩の兵が楯(た)て籠って居たのであるが、我が兵遂に利あらずして、城は敵手に落ちた。陣将横山主税が戦没する。内藤介右衛門がこれに代わりて、その指揮を執った。その後一勝一敗の勢いを維持して、八月までこの城を持ち堪えたけれども、その二十二日というに、この方面の備(そなえ)はいよいよ破れて了(しま)ったのである。

(管理人注記)
西軍(薩長軍)が白河口に攻め寄せたのは五月一日。


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