白虎隊実歴談 (一)

國分坊 著 「河北新報」 明治43年6月28日付

 

◎白虎隊の従征を語る前に、先ず順序として、当時会津藩の軍制改革、軍隊編成の大要を説明するの必要がある。
◎彼(か)の国難の当時、主として一藩の軍隊の訓練を掌(つかさど)ったのは、幕府の臣で畠山五郎七郎という仁(ひと)であった。この仁は仏国式の訓練を受けた新智識であったので、今この会津に来て、軍制の改革を行(や)ると当りても、又その式に倣ったのであった。
◎それで兵器は、勿論仏国式の舶来銃であって、弓や槍の類は、一切これを廃して了(しま)った。今日(こんにち)坊間にて行われてる白虎隊の石版画などに、槍に縋(すが)って城を眺めてるところを描いてあるが(注)、これは所謂絵空事で、全く事実を間違えてあるのだ。序(つい)でながら一寸(ちょっと)ここに書き添えて置く。
◎それから軍隊の組織は、大体からこれをいうと、その年齢によりて、これを四隊に編成した。尤も一国存亡の機の分れるという、非常な場合であるので、十六才以上五十才以下の藩臣は、悉く招集されたのであった。
◎即ちこの編成は
  白虎隊 (十六才より十七才まで)
  朱雀隊 (十八才より三十才まで)
  青龍隊 (三十一才より四十才まで)
  玄武隊 (四十一才より五十才まで)
の四隊とし、その任務は、白虎隊は君側を護衛し、朱雀隊は本隊、青龍隊は予備軍、玄武隊は後備軍というので、略(ほ)ぼ現今の制と似て居る。
◎右の四隊は、言うまでもなく歩兵隊である。そして毎日城内の三の丸で新式の訓練を受けた。初めは体操から、進んで繰銃、散兵というように、頗る秩序的に訓練されたのだ。
◎この歩兵隊以外に、尚(な)お特に大砲、騎兵の両隊も設けられ、そしてそれぞれの訓練を受けたのである。
◎以上の組織に就いてこれを見ると、当年の会津藩の軍制は、余程文明的に又(ま)た進歩的にあったように思われる。若し一般の世人が信ずるが如く、只(た)だ頑強な、そして時代後れの国であったとするならば、恐らくはそれを信ずる人の誤解たるを免れないであろう。
◎白虎隊は更にこれを二個中隊に分けてある。その一個中隊は、藩学日新館の学生のうち、身体強壮、成績優等なるものを選抜したので、これを士中白虎隊という。それから他の一個中隊は、日新館以外の学生、即ち身分の稍(や)や低いもののうちからこれを選抜したので、これを寄合組白虎隊というたのである。
◎既にして、薩長の軍隊は追々国境に迫って来た。白河口、日光口及び越後口の三方には、前後して戦争が開始された。国家安危の機は、今や眼前に繋(か)かってるのである。
◎朱雀隊は第一に進発した。続いて青龍隊も又た第二軍として或る方面に向った。更に第三軍として、玄武隊も又た国境を越えて行った。而(し)かも白虎隊は未だ君側を離れることを許されないのである。

(管理人注記)
この石版画は題名を「忠臣義士(ちゅうしんぎし)」とし、「松平容保書」と署名し、白虎隊自刃者18名のリストが付いている。この「忠臣義士」は飯盛山の白虎隊記念館をはじめ、萩市唐(からひ)町の中央地蔵堂にもある。特に、中央地蔵堂では町内の人が手厚く管理しており、参拝者が絶えない。


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