簗瀬竹次君事蹟



氏は嘉永六年を以て郭内三の丁の邸に生る。父を久人と称す。職を近侍に奉じて家禄百石を賜る。
氏は性頴敏にして恭謙良く人に遜り、兄弟悌順にして父母に愛せらる。学友の間は信義を以て交わり、義を見て為さるることなし。
氏は文久二年、十歳にして日新館に入学し、四書五経の素読を歴て試験に及第し、学問出精、三等二等一等の卒業を為し、其の間学芸衆に秀するを以て、屡々藩の賞賜を受く。又、武芸は弓馬槍刀の四術を修む。剣道は頗る氏の長所にして多いに好めり。又好んで水練を修し、向井流を学ぶ。

戊辰三月、士中白虎隊に編入せられ、沼間畠山の両氏に就き仏(フランス)式の撤兵調練を鍛錬し、天山公国境を巡視せらるるに当たり守衛して福良に至り、帰城すれば、忽ち敵軍国境に迫るを以て、遂に氏等八月廿二日、隊長の通達により午後より藩主を衛して滝澤村に達し、敵軍益々猖獗を極むるを以て、氏等戸の口原に出軍し、身命を塵芥より軽んじ、敵兵の進路を遮り、驕勝の兵を激戦奮闘して衆寡敵せず、遂に間道より飯盛山に退き、力尽き、衆と共に環座を為し、氏等重圍の中に陥り、硝焔空を覆うて見る能わざるの間に、城櫓を望見して糧○已に尽き、身体亦前日の如くならず、是れ臣等の潔く義に就き、国恩に謝す可きなりと、西向鶴城を拝し、地下に頓首して服を脱し、自若として自刃せり。年、時に十六歳。




『白虎隊事蹟』(中村謙著)より
原文に句読点を付け、旧仮名遣いの読み難い部分を現代仮名遣いにあらため、改行を入れるなどして出来るだけ読みやすくしました。
一箇所のみ、漢字変換ができませんでした。「糧○已に尽き」の○に入る漢字は、「米」に穰の部首(右側)が付きます。



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