簗瀬勝三郎君事蹟



氏は父源吾の三男なり。十一歳にして母堂を失い後ち継母に養わる。父は職を物頭役に奉じて家禄三百三十石を領す。嘉永五年六月朔日を以て若松二の丁の邸に生まれる。而して兄軍蔵は戊辰の役、青龍隊の小隊長となり、白川(河)に出張し、五月一日月待山のの戦いに銃傷を負い、持席無役となり自宅に療養す。
氏は幼より群兒と異なり、多弁を為さず、二兄に友愛にして性甚だ忱着たり。

文久元年、十歳にして藩校日新館三禮塾へ入門。日々出精して蛍錐の効大いに顯(あらわ)れ、三等より一等までの卒業を為し、其の賞与として四書及び小学近思録等下賜せらる。書学は東尊圓流にして、弓槍刀の四術は慶應二年より大場儀助に従い馬術を学び、弓術は一瀬甚五左衛門の弟子となり、槍術は内田伴之助に就き、剣道は長坂源吾の門に入り、指南を受く。

戊辰三月、士中白虎隊に編入せられ、日々城内三の丸に出て畠山五郎七郎、沼間慎次郎等に就き、仏(フランス)式撤兵調練を受け、衆と共に屡々出陣を請い、八月廿二日暁天、隊長の回章に因り直ちに武装を整い、当時家兄は銃創の為に家に在り、家人等共に氏を戒めて曰く「今般の出陣は容易ならざる一大事なり。国の為には身の耻を後世に遺す可からず」と。氏、対して曰く「国恩の為には一身の砕分を顧みず、忠節を尽くす可きなり」と大いに喜悦の色を顯(あらわ)し、暇を告げて城中に至り、隊長に従い藩主を護して滝澤村に至り、君命により進んで藩兵と共に原野に埋伏し、西軍の進行を伺い、激戦痛闘大いに人目を驚かす。然れども、蟷螂(かまきり)の龍車に向かう如く衆寡敵せず、遂に力竭(つ)きて飯盛山に退き、西南鶴城を望めば、黒雲天を覆い、砲声雷の如く、茲(ここ)に於いて衆と共に忠臣社稷に殉うの秋なり、鶴城を遥拝して共に刀を把り自刃せり。年十七歳。

後ち明治二年、遺骨を改葬するに当たり、上衣の袂に氏の直筆に係わるものありて始めて氏の遺骸なる事判明したり。而して、法名を忠肝剣光居士という。




『白虎隊事蹟』(中村謙著)より
原文に句読点を付け、旧仮名遣いの読み難い部分を現代仮名遣いにあらため、改行を入れるなどして出来るだけ読みやすくしました。



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