林八十治君事蹟



慶應戊辰奥羽の役に関せば、白虎隊自刃の事に至りて何人が之れを聞いて布巾を濡らさざる者あらん哉。是れ義心人として感動せしむる所以にあらずして又何ぞや。
氏名は光芳、通称八十治と云う。嘉永六年正月六日を以て若松の城下新町三番丁の邸に生る。父は忠蔵光和と号す。母みよは上田家より嫁す。子は実に之れが嫡男たり。
父忠蔵は有識の人にして、外様士より藩立の学校日新館素読所教職兼務となり、能く子弟を薫陶す。後ち御用所役人申し付けられ、御近習一の寄合席と為る。家禄拾石三人口又擢ぜられて御用所密事勤務となる。密事は藩士の選挙法を司る枢密の官也。幾許もなく、一瀬要人に随って越後口に出陣す。氏、幼にして英敏膽大往々にして人を驚かす。父母に仕えて孝あり。
文久二年四月、十歳にして日新館二経塾へ入門、十一歳にして既に四書五経の素読を終え、規定の試学を経て文久三年十月、三等卒業の免状を得、因って其の賞として四書集註一部を賜り、元治元年十一月、十二歳にして二等卒業の免状を得、其の賞として本註小学一部、近思録一部を賜り、慶應三年正月、書学を卒業し、雨畑産の大硯一個を賜る。而して此の年二月より印西派弓術を修め、剣道は真天流を学びて共に其の技に長ず。同年十月、十五歳にして学問出精一等卒業をなし、即ち講釈所へ及第、其の賞与として四書輯○の内大学論語各一部を拝領す。又、好んで詩作を能くす。然れども、国破れ家屋兵燹に罹り惜哉、茲に輯録すべき遺稿なし。蓋し、斯くの如く、連年其の賞与を得しは、若輩中其の例少なき所にして、氏が天性敏捷にして人に過ぎたるの致す所なりと雖も、亦霜露集りて川と為すの結果たるや、疑う可からず。
氏は常に釣魚の遊を好み、閑(ひま)あれば大川湯川應渠川等に綸(いと)を垂れ、以て遊えんす。

戊辰の春三月、士中白虎隊に編入せられ、仏(フランス)式歩兵調練を伝習し、七月天山公(若君なり)福良方面御巡回の際、警衛として随行し、急に国の形勢一変したるを以て八月九日夜、右の信書を認め、以て当時越後口へ出陣中なる父の許へ送られたり。

 愈々(いよいよ)遠藤伴助様御登りに付鳥渡(ちょっと)申上候。次第に冷敷方に罷成候得共弥(いよいよ)御機嫌克被遊御座候由誠に以て恐悦之御儀奉存候。爰元(ここもと)家内一同大無事に罷過申候間御安心御思召可被下候。小生も先之廿五日御供にて福良を立ち其晩に原へ御泊り相成翌日は赤津の少々手前より猪苗代へ御泊り被遊即日見禰山へ御参拝被遊一晩泊り廿七日着仕候。千石御叔父様にても先月廿九日大平の方へ御出に相成候。先以て御苦労至極に奉存候。扨(さて)先之廿七日着仕候処俄に赤谷口破れさうだ抔(など)申咄(はなし)有之上下大さわぎに相成候処俄に宰相様心有ものはくつつきて来り候半(そうらわん)とて極急に御出馬被遊候に付一晩だけは御城へ罷出居候。御軍事方の者共御連被遊余り急にて一文もなく大こまりの人抔(など)も有之候由御聞申候。一晩坂下(ばんげ)へ御とうりふ被遊其より御供揃に相成御出馬被遊候へば御戻しに相成候。然し只今も野沢へ御とうりふ被遊候様子に御座候。士中白虎一番の方も廿七日に懸り中一日置て又御供にて罷登り小子隊は若殿様御警衛の都合に相成候。今度も東西の大難戦に相成誠に以て大こまりに御座候。小生も又心懸は被仰付候へ共今に出向きは不仕候得共近日には東方へでも参り候都合に候半(そうらわん)と奉存候。扨(さて)御地の事は何とも可申上様無之次第誠に以て御苦労千万に奉存候。外にも申上度事海山より御座候へ共猶又後音に申上候。謹言
  八月九日夜急ぎ認                         八十治より
                                          光芳

  父上様
 尚々此間大江様御上りの節御手紙被下彼の御手紙にては誠に気味能方御手紙に御座候得共只今はつまらん事に相成申候。


而して官軍勝に乗じ、石筵口を攻むること益々急なり。然り而して此の月廿二日、隊長の回章に依り軍装に臨み、祖母戒めて曰く「諸事油断なく心掛け、御奉公致す可し」と。氏は対して曰く「平素家庭の教訓は勿論、今祖母の命に依り大節に臨みては身命を以て君恩に奉ずる一事あるのみ」と一言を遺して出陣せるのみ。回顧すれば、之れ氏が永遠の訣別となりたるものなり。
是より直に隊長日向内記に従い、滝澤村に至り、戸の口原に於いて激戦負傷を為し、血をすすり、創を裹(つつ)み、翌廿三日、剣に依り間道より山路崎嶇或いは下り、屡々奮戦して力竭(つ)き、遂に飯盛山に退き、衆と共に相談し、鶴城を再拝し、従容として自刃せり。時に年十六歳。

明年四月十八日、氏の老祖母飯盛山に至り、里人に就き白虎隊守節の現場に至り、遺骨を拾集し、若松徒の町頓教山一乗寺なる菩提所に埋葬せり。実に氏の訣言、骨髄に徹して人心を感せしむ。噫血胤の情察するに余りあり。法名を義光院剣誉忠勇清居士と称す。又、氏の出陣の際身体に纏いたる衣服の切等、今猶同家に存在し、佩帯の大小(大は関もの小は助宗なり)共に自刃の後ち奪われたりという。




『白虎隊事蹟』(中村謙著)より
原文に句読点を付け、旧仮名遣いの読み難い部分を現代仮名遣いにあらため、改行を入れるなどして出来るだけ読みやすくしました。
一箇所のみ、漢字変換ができませんでした。「四書輯○」の○に入る漢字は、「足」に流の部首(右側)が付きます。
尚、文中の書簡は、当サイトの「史料」に現代語訳を掲載しています。



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