野村駒四郎君事蹟



氏は父清八の三男なり、駒四郎と称す。嘉永五年五月廿日を以て郭内本二の丁北川三日町の邸に生る。
父は職を小納戸役に奉じて家禄百三十石を領す。母は永野氏より嫁す。然れども、父は早世して、慈母の膝下に幼育せらる。稍々長ずるに及んで、柴四郎(今の東海散士なり)、簗瀬勝三郎、西川勝太郎等を友とし、最も善し資性誠直果断にして、炯々たる眼光、人を射る。
氏は、十二歳にして日新館三禮塾へ入門。二等、書学二等卒業等の優等賞を賜り、剣道は十四歳にして長坂源吾の門弟となり、性甚だ武を好み、十七歳切紙下に進む。氏の家兄等、又武術を好んで藩中に名あり。

氏は戊辰の三月十六日、士中白虎隊に選ばれ、畠山五郎七郎、沼間慎次郎等に就き仏(フランス)式歩兵操練を薫陶せられ、其の術大いに進めり。或る日、藩主城内に於いて白虎隊歩兵式を上覧あらせられ、氏の進退衆に抜するを以て、御前に召され、軍事総裁内藤信節を以て褒賞せらる。特に大書院に於いて、将長と共に酒肴を賜る。

七月、天山公、国境を巡視せらるるに際し警衛として随行し、大平口より沼の平口まで公の馬前を護衛し、福良に着し帰城の後ち、官軍勝ちに乗じ国境を侵すこと益急なり。石筵口、敵兵切迫となり、八月廿二日暁天、隊長の回章至り、訣別に臨み、母謂うて曰く「汝、敵軍に向うては一歩も人に後るる事勿れ」と。氏は対して曰く「必ず忠死するのみ」と。家人皆、氏を門前に送る。氏は城中に入り、隊長日向内記に従い、藩主を護して滝澤村に至る。藩兵、戸の口原に在りて戦い、砲烟近きに在り。氏等、直ちに進撃を命ぜられ、戸の口原村に奮戦し、携うる所のヤーゲル銃筒破損して用ゆること能わず。隣傍なる飯沼氏に語り、「嗚呼、我が銃破裂して又用ゆる能わず」と。勇憤、銃を地に抛(なげう)ち、藩兵の小隊長山内某連発の元込銃を携帯して至るに会し、即ち謂て曰く「余が銃斯くの如し、将長豈銃を事とせんや」(将長は指揮を執るのがお役目ですから、銃を必要としないでしょう)と、其の銃を取り、敵軍に進み、激戦算なく山谷の間に屡々接戦し、衆寡敵せず、遂に洞口より弁天社内の傍に出て、飯盛山に退き、城外を瞰み、黒煙の盛んなるを見て城落ちたりと為し、城櫓を拝して自刃せり。年十七歳。

氏の母姉等城中に在りて、降伏の後に至るも、未だ其の死生を詳にせず、偶々人あり白虎隊屠腹の事を告げるものあり。然れども、其の姓名を知らず、而して滝澤村の肝煎某なるものありて、氏等の死骸戦後久しく散乱しあるを収めて、同村妙国寺に假葬(かそう)し、石碑を建立したり。然れども後ち、有志者の協議により、節場を永く不朽に伝えんが為、一統今の現場に改装せしものなり。
明治二年消雪に至り、母姉相伴いて妙国寺に墓参し、飯盛山に至り、処々を検し、果たして母姉等の裁縫したる脚絆片に紺足袋の散乱しあるを認め、初めて駒四郎の既に死するを知り、遺物を山麓の堀川に洗濯し、母姉共に悲嘆の情に堪えず。遺物を菩提所なる小田惠林寺父清八の墓側に埋む。法名を義詮孝忠居士という。




『白虎隊事蹟』(中村謙著)より
原文に句読点を付け、旧仮名遣いの読み難い部分を現代仮名遣いにあらため、改行を入れるなどして出来るだけ読みやすくしました。



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