西川勝太郎君事蹟



氏は父半之允の一子にして、嘉永六年正月を以て生る。母は神尾織部の五女、名はせき。若松本二の丁六日町通の邸に住し、家禄三百石、職を物頭に奉じて廉潔温行、能く下を愍(あわれ)む。而して伏見の乱、奮戦して重傷を受く。
氏は父母に事えて孝養を尽くし、天稟敏捷にして父母の鐘愛尤も篤し。十歳にして藩立の学校に入門、儒学を修め、四書五経の素読を卒えて試学に及第し、賞与を受く。十二歳にして一等試学に及第し、其の賞として小学其の他近思録等を賜る。氏は又、武道を好みて、弓馬槍刀の道を習い、特に父半之允は一刀流の奥薀を極めたるを以て、剣道は父に受けて、其の技を能す。

戊辰の春、士中白虎隊に編入せられ、爾後沼間畠山等の両氏に就き練兵を受け、又小銃狙撃の法を練習し、七月天山公に随い警備として福良村に出張し、石筵口危急に際し帰城。急に會津の形勢一変したるを以て、氏等出陣を請わんと欲し、八月廿二日、隊長日向内記の回章により、武具を整え、登城に臨み、母戒めて曰く「汝、軍中に在りては其の長の命に随い、人に後れて君父を汚すこと勿れ」と。氏は之れを拝して城中に赴き、藩主を守衛し、隊長に随い行くと、一里許(ばかり)飛報益急なるを以て戸の口原に至る。藩兵、敵軍と戦い砲声天地に響き、機失う可からずと氏等直に藩兵を助けて血闘力戦、遂に飯盛山に退き、輪座を為し、西南鶴城を望めば、官軍城外に進入し、黒烟城を覆いて見る能わず。是れ乃ち臣等の社稷に殉うの秋なりと、倶に共に死を約し、鶴城を再拝し、自若として自殺せり。年十六歳、後ち神名節顯霊神という。
翌年、氏の母飯盛山屠腹の場に至り、自ら裁縫して与えたる紐切を拾得し、後ち又氏が出陣の際帯せし大刀は若松の骨董商某の店より出でたり。二品とも今現に同家に保存せり。




『白虎隊事蹟』(中村謙著)より
原文に句読点を付け、旧仮名遣いの読み難い部分を現代仮名遣いにあらため、改行を入れるなどして出来るだけ読みやすくしました。



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