永瀬雄次君事蹟



氏は父丈之助の子にして、若松の城下花畑町の邸に生る。
兄又助は沈黙の人にして、父は職を祐筆に奉じて禄十八石三人扶助を食む。
氏は剛毅寡黙の士にして、人と言を争わず、幼より文武の道を好み、文久元年、十歳にして藩立の学校日新館に入門。儒学を学び、四書五経の素読を卒えて三等卒業をなし、而して二等一等の進級をなし、其の賞として四書集註其の他本註小学及び近思録等各一部を拝領せり。又、好んで武術を修めりと云う。

戊辰の春、士中白虎隊に編入し、日々仏(フランス)の練兵を受け、八月廿二日暁天、隊長の通達により家人の訓言を守り、城中に入る哉直に藩主に随い、東方滝澤村に至り、敵軍を戸の口原に拒き、屡々奮戦して左方に転じ、洞口より城内に至らんとし、乱丸の為に氏は左肱(ひじ)に負傷を受け、流血淋漓剣に杖り共に弁天社内の傍に出て、辛うじて飯盛山に退き、衆と共に輪座を為し、鶴城を拝し、刀を把り自刃せり。年十七歳。

  編者、嘗(かつ)て氏の従兄弟たりし警視東京本郷警察署長、故入江唯一郎氏を訪い、談偶々永瀬氏の事に至る。入江氏曰く、常に書を能くせりとて、四五字を書したる片書を出して、余に一覧を許せり。




『白虎隊事蹟』(中村謙著)より
原文に句読点を付け、旧仮名遣いの読み難い部分を現代仮名遣いにあらため、改行を入れるなどして出来るだけ読みやすくしました。



戻る