津川潔美君事蹟



氏、本姓は高橋、父は誠八と云い、母は有賀氏より出づ。潔美は其の三男なり。幼名を八三郎と称す。若松本四の丁の邸に生る。
明治元年春、同藩士津川瀬兵衛男子なきを以て養うて嗣子と為し、名を潔美と改称す。瀬兵衛は外様士にして、職禄百五拾石を食む。郭内米代二の丁に住す。
氏は天資頴敏、能く父母に事えて孝行なり。十歳にして藩の学校日新館に入門、四書五経の素読を卒えて賞与を賜り、爾来益々勉励怠ることなく続て二等一等の試学を歴て屡々藩の賞賜を受く。氏は殊に習字を能くし、試られて良硯を賞せらる。武術は剣道を好みて、其の術大いに長ぜり。

戊辰の三月、士中白虎隊に選ばれ、日々城内に於いて仏(フランス)式の練兵を学び、敵兵急なるを聞き、出戦を請わんとし、氏は池上氏の説を駁し、謂て曰く「池上氏の説理ありと雖も、直に藩主に訴うるは事の穏当を欠くものの如し故に、再び学校奉行に迫り、彼れより充分尽力せしめん」と遂に建議書を以て国老に奉ずることに決し、八月廿二日、隊長の回章に依り、母の訓言を守り、直に武装を為して期刻前城中に至れり。是より藩主を警衛して滝澤村に至り、敵勢益々盛んなるを以て戸の口原に向かう。砲声、電の如し。
是より先、氏は越後地方へ出張中なる実兄両人へ(八月十一日付)宛てて送りたる信書、今尚実兄高橋金吾氏の所蔵に係るを以て、左に謄載せり。

 一筆奉啓上候、追日秋冷相催申候得とも御両兄様ますます御機嫌よく御奉公被為御座候よし誠ニ以恐悦之御儀ニ奉存候 当方も御祖母さま奉始御家内様いよいよ御機嫌よく被為遊御座候間乍憚御安心御思召被成下度奉願上候
 次ニ小子儀も御無事にて御奉公罷在候間決而御安事被成下間敷候よう何卒奉願上候 小子儀も此間為御警衛福良村迄二三十日間出張仕候 又為御供罷還候 其後何方にも出張不致候 壱番白虎並寄合組御俵へ出張仕候処小子儀ハ当方にて安楽いたしをり誠ニ以不安事ニハ候得とも是以無拠次第ニ御座候 御俵も甚以宜敷様子無之候ニ付誠ニ以御安事おり申候 小子儀出張跡へ御状被下拝見仕候 其御返事急ニさし上度存候へとも序無之故御無音ニ打過誠ニ以御両兄さまへ奉恐入候
 当方も諸々方々ニ而戦争有之候へとも御様子無之を残念之至奉存候 此節之気候柄存分御両兄様御厭御奉公被遊候よふ奉願上候
 右何も何も御機嫌奉伺度奉呈愚札候
                                    恐々謹言
  八月十一日夕方 認
   金吾兄上様
   八郎兄上様
                                     潔美
                            
二白 此間父上さまほろ役被仰付猪苗代へ御出張被遊候此段一寸申上候
 尚々此御守東照大権現之御守也 此御守御身よりはなされす御持参の上御戦争被遊候よふ奉願上候 御組格別之御はたらき之よし奉恐察候 何卒御厭被遊御奉公のよふ奉願上候 此御守御両兄さまへさし上申候


嗚呼、氏は兄弟に友愛にして、又以て右の信書は二親に事え、君に忠なるをを知るに足る可し。

戸の口原の藩兵、必死を尽くして其の勢猛虎の如し。氏等、敵を逆い、衆を撃ち、飯盛山に退き、鶴城を望めば、敵軍は城外に充塞して砲声天地を動して僅かに城櫓を黒雲の間に見るのみ。氏等、糧尽き身体疲れて如何ともすること能わず。茲に於いて、團座を為し衆と共に議し、慨然として腕を扼し、西南鶴城を拝して自刃せり。年十六歳、法名を清進院良誉英忠居士という。




『白虎隊事蹟』(中村謙著)より
原文に句読点を付け、旧仮名遣いの読み難い部分を現代仮名遣いにあらため、改行を入れるなどして出来るだけ読みやすくしました。文中の書簡は、当サイトの「史料」に現代語訳を掲載しています。



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