鈴木源吉君事蹟



氏は玄甫の二男なり。嘉永五年九月を以て若松徒の町の邸に生る。
母をさだと云う。父玄甫は御側医師にして食禄百貮十石、内科術に長じて頗る人の信用あり、故に診薬を請う者陸続遠海より輻輳す。兄を金次郎と云う。博学温行の人なり。
源吉、人となり剛直寡黙にして壮年の者を友とし、人と抗争せし事なし。幼より文学武道を好みて、文久元年、十歳にして藩校日新館毛詩塾へ入門。儒学を学び、四書五経の素読を終えて翌二年三等卒業をなし、其の賞として四書集註一部を賜り、同三年学問出精一等卒業を為し、其の賞として本註小学及び近思録各一部を拝領せり。斯くの如く蛍雪の効既に講釈所に昇らんとして此の災厄に遇し、槍術は法蔵院流にして剣道は真天流を学び、又好みて砲術を能くす。

戊辰の三月、士中白虎隊に選ばれ、日々城内三の丸に於いて脱幕士沼間氏等に従い仏(フランス)式歩兵調練を習い、儲君天山公を守衛し、安積郡福良村に出張。

時に八月廿二日に至り、隊長の回章に依り武具を用意し、氏は常に長刀を好めども、出陣の際、家兄戒めて曰く「古今長刀は急場に臨み敗を取りしものあり。故に余が秘蔵する所の冬廣の短刀を与う可し。汝、若し負傷の為擒(とりこ)に就くも自裁して以て君命を汚す事なかれ」と。源吉、対て曰く「諾敵軍既に国内に迫れり。国の存亡知る可らず。一死容易に君恩に報ずるのみ。願わくは意に介する莫(なか)れ」と。終に仏壇を拝し、其の短刀を帯び、欣然として暇を告げ、出陣の途に就き、隊長に従い藩主を衛して滝澤村に至り、敵の進軍を防がん為、戸の口原に至れば、官軍破竹の勢を為し、其の鋒当たる可らず。如斯弾丸驟雨の間に血闘力戦し、大いに人目を驚かせり。さ然れども、衆寡敵せず敗衂死傷多く、遂に飯盛山に退き、鶴城を望めば、官軍四面に進入し、大小の砲声天地に振るう。茲に於いて、衆議城已に陥り、主亡ぶ。是れ我儕国難に殉ぶの秋なりと、倶に共に死を約し、自刃せり。年時に十七歳、法名を顯忠院達誉義道居士という。




『白虎隊事蹟』(中村謙著)より
原文に句読点を付け、旧仮名遣いの読み難い部分を現代仮名遣いにあらため、改行を入れるなどして出来るだけ読みやすくしました。



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