篠田義三郎君事蹟



氏は父兵庫の二男にして、嘉永五年四月十五日を以て若松の城下米代二の丁の邸に生る。
母は田中土佐の養女にして名はしん、実は田中織部の長女なり。父兵庫は御供番より職を奉行に奉じて家禄貮百石を食む。戊辰の役、越後小千谷詰郡奉行となり、小出島に激戦を為し、連戦転じて九月、會津一の関村に於いて戦乱中病死せり。
氏は性剛直果断にして幼時竹馬を好み、十歳にして文久元年正月十五日、藩校日新館尚書塾に入門。教職三橋文内及び鈴木早之助の両氏に就き儒書を学び、日夜切磋して怠ることなく、試学に及第して三等より二等一等に進み、屡々藩の賞典を受く。又、筆蹟を試られて良硯一面を賜る。又、十二歳の頃より専ら圖(図)を取ることを好めり。氏の祖父順則は槍術の達人にして大内流の薀奥を極め、職を師範役に奉じて日新館に子弟を教授す。氏は、慶応二年正月より日置流印西派弓術を小川有太郎氏に就き、槍術は大内流にして上遠野保氏に学べり。同氏は義三郎の伯父にして、槍術の師範役たり。剣道は一刀流にして、樋口早之助に就き学ぶ。馬術は大坪流を学び、水練は向井流川島源之進に就き学べり。斯くの如く黽勉して文武両道に通じ、学友に貴わる。

戊辰の春、士中白虎隊に選ばれ城内に於いて、仏(フランス)式の練兵を学び、又氏は東西に奔走して出陣を請わんとし、遂に書を以て国老に請願することを決し、井深石山両氏の書成るや、氏は直ちに安達氏と共に建議書を携え、国老萱野氏に致し、尚口頭を以て事情を述べ、君侯の尊聞に達せんことを要求せり。

時に八月、本隊は藩校の管理を離れ、日向内記之れが長となり、此月廿二日の暁天、隊長の回章により武装して衆皆城中に集まれり。氏は此時隊中に向かい、高声を発し祝辞を述べ、謂うて曰く、
「我々の常に渇望する所の機、已に来たれり。我々は諸君と盟て敵の大軍を敗り、君侯の馬前に於いて屍を曝すは此の秋(とき)なり。諸君も定めし満足せられしならん」と。
隊声、之に和し、隊長の号令に藩主を守衛して滝澤に至る。氏は嚮導の任を帯び、益々飛報あるを以て戸の口原村に出軍を命ぜられ、藩兵と共に奮戦格闘、堅を衝き鋭を挫き、孤立援なきの兵を以て遂に飯盛山に退き、此の日暁天陰雲起こりて濛々空を蔽(おお)い、日光為に朦朧たり。既に隊長を失い、殆ど梶を失いたる巨船の大海に漂うが如く、是に於いて氏は嚮導安達氏と共に一隊に号令し、士気益々励みたれども、体躯疲弊して亦如何ともすること能わず。衆議皆死を決し、氏は高声を発し、衆に謂て曰く「主辱めらるれば臣死す、豈微躯を愛して君父を汚し、恥辱を後世に遺さんや」と、鶴城を遙拝して、自刃せり。年時に十七歳、法名を賢忠院軍与英清居士という。




『白虎隊事蹟』(中村謙著)より
原文に句読点を付け、旧仮名遣いの読み難い部分を現代仮名遣いにあらため、改行を入れるなどして出来るだけ読みやすくしました。



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