井深茂太郎君事蹟



氏、名は重應、通称茂太郎と言う。嘉永六年丑年十二月二十一日を以て若松三の丁の邸に生る。父は守之進重教と号す。母はきよ、氏は実に其の一子なり。
父守之進、初め奏者番役を勤む。戊辰の役、青龍隊の小隊頭となり、檜原口に向かう。帰城して朱雀隊中隊頭に選れ、越後口に出陣し防戦、勇敢を以て名あり。
氏は父母の愛子にして、性鋭敏怜悧、幼少より能く二親に仕え、孝あり。朋友に交わるに信義を以てし、文久二年、十歳にして日新館に入り、日々通学して怠ることなく、四書五経の素読を卒え、三等二等一等の試学に及第し、其の賞として四書及び小学、近思録を賜り、十三歳の春、遂に講釈所生に昇り、詩経集註、易経本義を受く。書は山本潦齋に学び、頗る其の技を能くす。十四歳の時、試れて良硯一面を賞賜せらる。斯くの如く屡々賞賜を得しは氏の天性敏なると雖(いえ)ども、又以て寸時も怠ること無き不抜の神を賞するに足る。而して又、武術を修む。人皆、之を栄とす。

戊辰三月、士中白虎隊に選れ、日々城内三の丸に於いて沼間畠山等の諸氏に就き仏(フランス)式練兵の薫陶を受け、小銃射的術を学ぶ。七月、嗣君を警衛して福良村に随行し、帰城間もなく八月廿二日、隊長の回章により登城し、直ちに藩主を護し隊長に従い、滝澤村に至る。是より先、各所の戦い急なるを聞き、以て出戦を請うの意を喚起し、城内三の丸に集会し、終に書を国老に奉じ、出陣の許可を請うの議に隊中一決し、則ち氏は石山氏と建議書草案員に選れ、共に左の草案を起草したり。

     建議書
 儀三郎等頓首頓首再拝書を国老閣下に呈す。今や我藩強敵を四境に受け守衛之士防戦最も努むと。然れども戦機一歩を誤り敵をして境内に入らしめば牙城危き事累卵(るいらん)啻(ただ)ならざるなり。而して守衛の士永く国境に在り後援なく苦戦数旬身神共に疲累(ひるい)す。進退亦往時の如くなる能はず。是れ某等生兵を以て之に替り奮戦勇闘平生訓練の技を試み国家に殉ずるの秋(とき)なり。曩(さき)に学校奉行に面陣して出陣の事を以てせしも干今何らの命あるなし。荏苒曠日(じんぜんこうじつ)軍機を失うあらば臍を噬むも及ぶなけん。時機已(すで)に逼(せま)る。後命を竢(ま)つの暇(いとま)あらず。敢て閣下に白(もう)す。某等の心志執奏あらん事を。頓首。恐惶恐惶。

  萱野権兵衛殿閣下
 追申 某等向ふ所の方面敢て自ら撰まず。只君命是竢(ま)つのみ。然れども敵兵の最も多き所敵情の最も萃(あつ)まる所痛望の至に堪へず。閣下幸に意を注ぎ某等の心事を憫(あわれ)みて容(い)るるあらば則(すなわ)ち欣喜何加焉。再具

然り而して建議書は教導篠田安達の二氏を以て国老へ奉じ、猶尊聞に達せんことを請い、此月廿二日、急に隊長の通知により登城し、藩主を護して駸々東に向かい、滝澤村に至る。滝澤村は、城下と距る一里余の所にして、遂に戸ノ口原に達す。勇然として驟雨の如き乱丸の間に立ちて奮戦し、山麓を登降して連戦、左方に転じて洞口より弁天社内の傍に出て、辛うじて飯盛山に登る時に敵軍破竹の勢いにて砲声雷の如し。氏等、遂に身体疲れ、弾丸弾き、食亦無く、進退谷り。茲に於いて互いに團座を為し、衆と共に憤然として母の教訓を追想し、西南鶴城を黒烟の間に稽首して自刃を為したり。年時に十六歳。翌年二月二日、遺屍を得て、五日城南大窪山に葬る。法名を深明院殿忠道道義入居士と言う。




『白虎隊事蹟』(中村謙著)より
原文に句読点を付け、旧仮名遣いの読み難い部分を現代仮名遣いにあらため、改行を入れるなどして出来るだけ読みやすくしました。文中の建議書は、当サイトの「史料」に現代語訳を掲載しています。



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