石山虎之助君事蹟



氏、本姓は井深、幼名を直次と称す。父名は数馬、母は土屋省吾の三女、名はそわ。氏は其の二男なり。文久元年、故ありて行田姓を冒す。名を虎之助と改称せり。
嘉永六年七月廿三日を以て上総国天羽郡竹ヶ岡村會津陣屋に於いて生る。同藩士石山弥右衛門、男子なきを以て戊辰の春請うて之れを養い子となし、大に愛せり。氏は天性沈黙果断にして能く父母に事えて孝なり。且つ長者に恭謙にして、人を損せし事なし。
父弥右衛門は外様士にして家禄百五十石を領し、若松本四の丁の邸に住し、氏は文久元年江戸芝の會津陣屋の素読所に入門、学ぶこと二ヶ年、同三年會津に還り、同年より藩立の学校日新館に入学。学問出精、試学に及第して三等二等を歴て慶應元年、十三歳にして一等に進み、屡々藩の賞与を受く。此年より弓槍剣銃の術を修め、翌二年、馬術を修せり。氏は特に剣槍の両術を好み、就中剣道は氏の長所なりしと言う。

戊辰の三月、士中白虎隊に選れ、旧城内に於いて仏(フランス)式の練兵を学び、而して日々に戦争盛なるを聞き、氏等城内に集り、出戦を請うの会議の時に当たり、氏は忽ち襟を正し謂て曰く「我々は憤慨に堪えず、出陣を請うも既今城中には我が隊あるのみにして、他に牙城を守衛する者なし故に、容易に許可あるまじ。若し幸にして許可ありて敵軍に臨むも、万一城下に於いて急変あらんか何を以て之れを防ぐ可きや。此時に当たり、臍を噛むも其の詮なからん、是れ最も考を要する所なり。去りながら、我々の心既に決して亦止む能わず。故に意志を具し、之れを国老に致らん。其の取捨は一に君意にあるのみにして、他に良策なからん」と。次に間瀬某の説あり、而して皆書を以て国老に請う事となり、氏は井深氏と共に建議書の起草者に選れたり。

而して後、八月廿二日暁天、隊長の回章により氏は別を家人に告げて城中に至り、其れより藩主を護衛して隊伍整々城門を出て、東方滝澤村に至る時に戸ノ口原戦い酣なるを以て、氏等直ちに同所に出軍し、藩兵と共に敵軍に当たり、弾丸雨注の間に奮戦し、大厦の一柱支えんとして難く、遂に飯盛山に退き、身体疲労し、衆と共に鶴城を黒烟の間に望み、稽首して自刃せり。時に年十六歳。




『白虎隊事蹟』(中村謙著)より
原文に句読点を付け、旧仮名遣いの読み難い部分を現代仮名遣いにあらため、改行を入れるなどして出来るだけ読みやすくしました。



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