石田和助君事蹟



氏は父龍玄の二男にして、嘉永六年八月を以て若松の城下槻木町の邸に生る。母ちゑは中村為七郎の長女なり。兄は前の長崎県知事にして即ち今の福島県知事、日下義雄君なり。
父龍玄は常雄と称し、温仁の人にして職を侍医に奉じ、食録十八人口、内科術に巧にして頗る藩の名望あり。故に診薬を請うもの絡繹絶えず、又貧者の病む者あれば価を得ずして薬を給し、下を愍(あわれ)むを以て、其の名声益々高し。
氏は人となり天稟穎悟果断にして、性武道を好み、能く人を愛し、父母に事(つか)えて孝あり。学友に交わるに信義を以てし、兄弟親愛にして曾(かつ)て人の批評を受けしことなし。故を以て、卿当与て之れを誉む。
氏は九歳にして藩校の日新館に入門、蛍錐の業一日も怠ることなく四書五経の素読を卒いて規定の試学に及第して、三等二等一等の卒業を為し、其の間四書集註及び小学、近思録等屡々藩の賞与を受け、剣道は真天流を学び、又槍術を修めて其の技を能くす。氏は膂力人に過ぎ、夏期に至れば水泳の術を研究し、觝力は武芸の一なりとて大に好めり。

戊辰の三月、選ばれて士中白虎隊となり、日々脱幕士沼間畠山の両師に就き仏(フランス)式の練兵及び小銃射的法を鍛錬せられ、或いは山野を歩して対抗運動を為し、七月、儲君天山公を警衛して安積郡福良村に出張、動かし、措く能わず。故に奔走して、皆出陣を請うことの議を為したり。

時に八月廿二日の朝、隊長の回章に依り武装を為す。家兄戒めて曰く「汝、国恩に報ずるに命を鴻毛の軽きに於いてせよ」と。氏、対して曰く「碎身以て君命を奉じ、粉骨以て国士の道を尽す可きなり事已(すで)に此に至る、亦言うべきなし。潔く国家に殉え、祖先土津神君以来養成せられし士風を表明する真に此時に在り」と訣言し、兄より関兼定の刀を受けて城中に至る。是より藩主を警衛して滝澤村に進み奮戦、遂に飯盛山に退き、慨然鶴城を再拝して従容刀を取って自刃せり。年時に十六歳。




『白虎隊事蹟』(中村謙著)より
原文に句読点を付け、旧仮名遣いの読み難い部分を現代仮名遣いにあらため、改行を入れるなどして出来るだけ読みやすくしました。



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