安達藤三郎君事蹟



氏は幼名を早橘と言う。若松の城下米代一の丁の邸に住し、小野田助三衛門の三男なり。故ありて安達姓を冒す。
父助三衛門は職を旗奉行に奉じて家禄三百石を食む。氏は深沈にして度量あり、性武芸を好み、且つ強記に長ぜり。
十一歳の春、藩校日新館に入門し、勉強怠ることなく規定の素読を歴て賞与を得、三等二等一等の試験に及第して卒業を為し、学芸大に進み、又武術は日新館に於いて学修し、殊に氏は剣道に長ぜり。

戊辰の春、士中白虎隊に編入せられ、爾後畠山沼間の両氏に就き仏(フランス)式の歩兵調練を習い、且つ小銃射的を鍛錬し、七月、儲君天山公を警衛して福良村に出張し、天山公暫く同地に滞在せらるることとなり、氏等要地の街道に哨兵を為し、往来の人毎に之れを検したり。
氏は或日の早天、其の番に当たり、哨兵と為りしに右方を望めば、一士の馬に跨り馳せて氏等の面前を過ぐる者あり。氏は大に怒り、「我々は君命により哨兵を為すものなり。何人ぞ許可なくして過ぐるを得ん」と高声を発し、銃を執り、これを狙撃すること二回に及べり。騎馬の士は之を避けつつ、馬を引き返し、氏等の面前に来り、馬より下り、曰く「余は土方歳三なり。軍謀の為に本陣に趣くなり」と謝言し、去れり。
天山公、滞留せらるること三旬余にして帰城せらる時に国難益々急なるを以て、氏は隊中に謂いて曰く「聞く処に拠れば越後地方に於いて我藩隊は最も勉め死傷殊に夥く、今や殆ど之を支うるに策なしと、此れ実に我国の一大事なり。然るに今、寄合組白虎隊は之れが応援として出軍を命ぜられ、欣然意気を帯びて戦地へ向かえり。考うるに、我藩立学校の少年にして同年輩のものを数うれば、其の数多し。然れども、我々は特に選抜せられ、此の白虎隊を編制するを以て、其の名誉卑からざるのみならず、恩命の厚き何を以てか之れに報せん。然るを今、寄合組白虎隊を派遣せられ、我隊に其の命なきは、是れ何等の詮議に出てしや。更に解する能わざるなり。是れ我が隊は、練習未だ精熟せざるの故ならんか、諸君の知らるるごとく、我々は決して兵式其の他に於いても寄合組白虎隊に一歩も譲らざる所なり。諸君、如何と思い賜う」と。衆皆高声を発し、其の憤状見るに忍びざりき。遂に氏等、力を尽くし、書を以て出軍を請うことに決し、書の成るや氏は直ちに篠田氏と共に尽力して、出戦の命を待ちたり。

然り而して、八月廿二日、隊長の回章により奮躍して隊長に随い、藩主を衛して滝澤に至り、敵軍を戸ノ口原に逆い、氏は嚮導の任を帯び、乱丸驟雨の如き間に立ちて拒戦し、遂に間道より飯盛山に退く時に隊長の所在知らず、是より氏衆と共に團座を為し、謂いて曰く「事已(すで)に此に至る、如何なりともする能わざるなり。士戦場に臨む死は固より其の分なり」と、西南鶴城を遙拝稽首して刀を把り、自刃せり。年時に十七歳。




『白虎隊事蹟』(中村謙著)より
原文に句読点を付け、旧仮名遣いの読み難い部分を現代仮名遣いにあらため、改行を入れるなどして出来るだけ読みやすくしました。



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