白虎隊碑

去二堂主人  山川 浩

 

慶応戊辰八月二十三日、白虎隊士十有九人、自刃して難に殉ず。初め我が会津藩の敵を四境に受くるや、丁壮出でて戌(まも)る為。城下守備固からず、乃(すなわ)ち日新館の少年生徒を集め隊伍を為し白虎隊と号す、石筵口守(まもり)を失うに及び、西軍長躯(ちょうく)して将(まさ)に鶴ヶ城を擣(つ)かんとす、勢い頗る鋭し、我軍戸の口原に逆(むか)ふ、白虎隊亦其中(そのうち)にあり、奮勇激戦、互に死傷あり、而して衆寡敵せず大敗す、諸士乃(すなわち)将に還って城に入らむとし、仄徑(かいけい)に由り飯盛山上に至る。
時に西軍本道の兵を尾撃して、而して城下に達し、砲声地に震ひ、煙焔天に漲(みなぎ)る。諸士火の起るを望見し、以て城陥ると為し、相謂て曰く事既に此(ここ)に至る。唯だ一死して以て臣節を全ふするにあるのみと、遂に腹を屠(ほふ)りて死す、既にして印出某(なにがし)の母其子を索(もと)めて山中に到り、死屍の枕藉(ちんせき)して鮮血の地に塗(まみね)るを見る。遍(あまね)く検して獲ず。一少年あり気息奄々尚未だ死せず、之を負うて而して帰る。即ち飯沼貞吉也、貞吉因て詳かに諸士殉難の状を語ると云う、嗚呼諸士齢僅に十六七、孱弱(せんじゃく)の躯(み)を以て進むで大敵に当り、危を見て命を授け、以て主恩に報ゆ。其忠勇義烈、千歳の下(もと)懦夫(だふ)をして志を立てしむるに足る。蓋(けだ)し藩祖土津(はにつ)公夙(つと)に文学を起し、務めて倫常を明(あきらか)にし士気を振作し、爾来二百余年、日新館を設くるに及び、教化益益行はれ、人節義を尚(たっと)ぶ、宜なり諸士の死を視る帰るが如きや。今茲(ことし)十勝ち二十三回忌辰に値ふ、郷里の有志者相謀って、将に碑を其の死所に建て、以て不朽に伝へんとし、来って文を浩に請ふ。浩は敗軍の将也(なり)、亦曾(かつ)て剣弾の間に奔馳して、而して終に寸功を樹(たつ)るなし、一たび之を思ふ毎に痛恨に勝(た)へず、今や郡県の制成り、東西混同復た墻(かき)に鬩(せめ)ぐの虞(うれい)無し、独り憂ふる所の者は海外諸邦変詐(へんさ)百出(しゅつ)、動輙(やや)もすれば人の国を侵す。他日若し無礼を我に加ふるあらば、即ち吾郷の子弟たる者、宜しく侮(あなどり)を防ぎ、折衝国家に殉し、以て、諸士の義烈を継ぐべき也。果して然らば即ち諸士も亦必ず地下に含笑せんのみ、乃(すなわ)ち涙を揮ひ其事を叙し、銘に国歌を以てす、曰く
   久母里奈幾 都伎比波天良世 久爾乃多女
       佐良志々加婆年 久知八波都登毛
   
くもりなき月日は照らせ国のため
       さらししかばね朽ちやはつとも


篆額 : 旧藩主松平容保、撰文 : 山川浩、書 : 南摩綱紀


これは、飯盛山に建てられた白虎隊碑の碑文を読み下し文にしたものです。
読み下しは、「戊辰戦争と白虎隊」 堀内潤平 昭和3年会津白虎隊隊看守所発行を参考にさせていただきました。原文は、「会津会会報」 第2号(大正2年)を参照しました。




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