白虎寄合二番隊 

 

白虎寄合二番隊も、慶応四年七月十五日に若松を経って越後口へ赴き、八月一日、津川から船で阿賀野川を下り、阿賀野川中流右岸の石間口(津川から下流へ八キロ、一番隊の居る赤谷口とは飯豊(いいで)山地を挟んで南へ十二キロ以上の隔たりがある)の守備についた。赤谷と石間を結ぶ南北線は、越後と会津の境界となっていて、石間は各地を転戦していた会津藩兵が引き揚げて来る要所でもある。此処には、彼らの他に朱雀士中四番隊、朱雀寄合二番隊、砲兵隊、築城隊、結義隊、別楯寄合組隊などが集まり、越後口から攻め入ろうとする新政府軍を赤谷との南北境界線で阻止しようとしたのである。しかし、石間は阿賀野川北岸(右岸)に在った為、南岸(左岸)の左取村の警備にも兵力を割く必要があり、白虎寄合二番隊をはじめ、砲兵隊、別楯寄合組隊は川を渡り、そちらへ移動した。

新政府軍が会津軍の約二倍の勢力で攻め込んで来たのは、八月十日のことで、白虎寄合二番隊は左取山から応戦することになった。しかし、左取村は戸数僅か二十ほどの小村であったので、到底持ちこたえられず、三隊は後退し、石間に戻った。この時の新政府軍との戦いに於いて、隊士の星勇八が戦死。負傷した百瀬外次郎と小松八太郎も石間に引き上げた後、死亡した。八月十五日に赤谷で会津軍が敗れる、との報せが入り、白虎寄合二番隊を含む会津軍は津川に引き揚げることになった。

翌八月十六日、白虎寄合一番隊と合流、阿賀野川を渡るのに苦心する新政府軍に砲撃を加え、善戦したが、二十三日に母成峠が破られたとの報せが届き、兵を返すよう命令が出された為、二十五日夜に下野尻に移動した。

二十八日に新政府軍が砲撃を開始、会津軍もこれを迎え撃ち、只見川を挟んで激しい砲撃戦が繰り広げられた。九月四日までの戦いで、二番隊は隊士二名(鈴木平助、山本太郎)を失った。
その後、二番隊は他の会津軍の諸隊と共に街道を通って帰城、一番隊の半隊長佐藤清七郎と隊士十四名と合流して三の丸の防衛に当たった。

籠城戦に参加した二番隊からは、隊士二名(青山勇之進、安恵助三郎)の戦死者が出ている。


白虎寄合二番隊名簿(は戦死者)

中隊長:太田小兵衛
小隊長:笹原伝八、成田源之丞、原弥兵衛、小川郷左衛門
半隊長:野出泉、石沢外次郎、佐藤武之助

秋尾九吉、阿部八之進、赤羽百之助、赤塚藤三郎、池田勝治、五十嵐直五郎、池上勝太郎、一牛甚吾、井上寿八、猪狩芳之助、石川四郎、石山八次郎、江川留四郎、尾崎藤次郎、太田源太郎、小川勘吾、小沼栄吾、加藤善太郎、金子新六、木野勝衛、黒河内満之助、栗原勝太郎、小出八五郎、近藤勇八、佐々木常五郎、佐藤佐太郎、白井繁次郎、白井貞吉、柴倉善蔵、杉山丑見、千里駒次郎、塚原政次郎、中条広記、長島竜三郎、新妻(島)三郎、仁科信蔵、西川鉄次郎、二宮友三郎、野中丑四郎、土方五郎、深尾清八、藤田清吉、本郷喜四郎、松崎竹次郎、松田吉五郎、三浦竜助、三善万吉、宮下茂太郎、水野多門、目黒富之進、百崎茂三郎、山川三郎、吉田豊記、吉川源之助、横山寅次郎、星勇八、百瀬外次郎、小松八太郎、鈴木平助、山本太郎、青山勇之進、安恵助三郎


隊士は以上六十二名、うち戦死者七名
(人数については諸説あり。ここでは参考文献に基づいたもの)




参考文献: 早川廣中『真説・会津白虎隊』、宗川虎次『補修 會津白虎隊十九士傳』、中村彰彦『白虎隊』

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