白虎寄合一番隊 

 

白虎寄合一番隊は、慶応四年七月十五日に若松を経って越後口へ赴き、越後街道を行軍して会津領西端の赤谷に到着。八月二日、赤谷口の守備についた。既に奥羽越列藩同盟に背いていた新発田藩の領内から攻めて来る新政府軍に対抗する為である。此処には、彼らの他に遊撃隊、力士隊、猟師隊、地方御家人隊が守備についており、後から朱雀足軽隊の一隊が応援に駆けつけている。この時の新政府軍との銃撃戦で、隊士の佐々木新六郎が戦死。八月十五日には新谷で新政府軍と戦ったが、戦力の差が歴然としていた為、やむなく退却、阿賀野川南岸(左岸)の津川にて二番隊と合流。

翌八月十六日、阿賀野川を渡るのに苦心する新政府軍に砲撃、善戦したが、二十三日に母成峠が破られたとの報せが届き、兵を返すよう命令が出された為、二十五日夜に下野尻に移動した。この際、隊士の藤森八太郎が戦死、他一名が重傷(高崎駒之助、九月五日に死亡)を負った。撤収後、只見川岸での戦闘で更に三名(星八弥、黒河内八十記、岸彦三郎)の戦死者を出す。

一番隊の主力は喜多方の小荒井へ向かうが、この時にも一名が戦死している。二番隊と行動を共にした一番隊の半隊長佐藤清七郎と隊士十四名は、帰城して三の丸の防衛に当たった。

転戦中の一番隊の主力は九月十一日、純義隊と共に新政府軍と一戦を交え、撃退に成功したが、此処で隊士の遠藤嘉龍二が戦死している。
その後、塩川を経て一ノ堰へ進み、会津軍は新政府軍に猛攻撃を仕掛けた。この戦いでは敵味方共に多数の犠牲者を出し、白虎寄合一番隊でも中隊長の原早太と隊士五名(若林八次郎、鈴木五郎、樋口勇次郎、池田勇太郎、好川滝三郎)が戦死。九月十七日には新しい中隊長望月辰太郎に率いられ、再び激しい戦闘を繰り返し、三名(関原繁太郎、木村次郎、江川次郎八)の戦死者を出したものの、朱雀寄合二番隊、結義隊なども加わって新政府軍に逆襲、敵を北へ後退させた。
この日の戦功により、白虎寄合一番隊の生き残り隊士達は、近習一ノ寄合席(文官の高位のランク)となり、白虎士中二番隊と改められた。←元の白虎士中二番隊は、士中一番隊と合併、新たに士中一番隊となっていた為。

尚、籠城戦に参加した一番隊からは、半隊長佐藤清七郎が戦死している。


白虎寄合一番隊名簿(は戦死者)

中隊長:原早太 (後に望月辰太郎)
小隊長:平山縫殿之助
半隊長:佐藤清七郎、荒木久米吉

赤羽幸記、秋元寅三郎、浅井鉄郎、相沢清治、相葉安之助、石山次郎、飯坂留三郎、井関治八、鵜飼五郎、江川次郎八、遠藤嘉龍二、遠藤八郎、小川伝八郎、小沢虎松、沖田勝蔵、岡村吉次、柏屋栄太郎、河合平太、河村鍬三郎、川村権次郎、笠原重太郎、風間久次郎、木村仙太郎、岸彦三郎、黒沢義八、黒河内丑松、黒河内八十記、桑名友記、小林源太郎、小出八五郎、香津吉三郎、佐藤栄太郎、佐藤勝之助、佐藤忠三郎、佐原新次郎、斎藤熊四郎、斎藤左武、斎藤貞之助、斎藤友記、渋川平蔵、鈴木岩次郎、鈴木五郎、鈴木為三郎、鈴木喜津之助、関屋八太郎、竹永源次、武井四郎、高津勝之助、高崎駒之助、外島八次郎、中森茂八、中田部三郎、中村小太郎、中島祐次郎、中田助次郎、中上寿八、林平多、林庄四郎、林九八、畑源次郎、馬場助蔵、樋口八太郎、藤森八太郎、藤森虎之助、星八弥、保志清治、松本幸太、三沢辰太郎、宮下四郎、山口丑三郎、矢島万次郎、柳下次郎、弓木平太郎、結城千代吉、吉田栄之進、好川滝三郎、和田平吉、渡部義太、渡部源太郎、若林八次郎、生亀三郎、大竹直次郎、木沢治八、北村栄蔵、黒沢逸記、小林直太郎、清水丈八、嶋影幸次郎、鈴木竹次郎、高田栄助、高木八郎、高橋重郎、野村房之助、林部文吾、池田勇太郎、木村次郎、佐々木新六郎、関原繁太郎、樋口勇次郎


隊士は以上九十九名、うち戦死者十五名
(人数については諸説あり。ここでは参考文献に基づいたもの)




参考文献: 早川廣中『真説・会津白虎隊』、宗川虎次『補修 會津白虎隊十九士傳』、中村彰彦『白虎隊』

戻る