白虎士中一番隊 

 

白虎士中一番隊は、慶応四年七月十日(八日説も有り)、二番隊と共に若殿(松平喜徳:容保の養子)の護衛として、福良(猪苗代湖の南側)に出張。白河口方面の巡見の為である。
七月二十八日には、自ら出馬を決意した容保に付き従って、越後街道を西北に約三十キロの野沢本陣へ向かった。

その後、一番隊は所謂「近衛部隊」として、主に藩主・松平容保の護衛に当たり、籠城戦の際は城外での激戦で奮闘、入城後は士中二番隊の帰城者と合同で戦った。戦死者(隊士三名と小隊長中村帯刀)はすべて、城下での戦いと籠城戦での犠牲者である。


白虎士中一番隊名簿(は戦死者)

中隊長:春日和泉
小隊長:中村帯刀、柴佐太郎
半隊長:生田織江、諏訪啓次郎

荒木藤八、井上忠吾、井深主、上田豊次、春日与五郎、梶原留四郎、木村直人、窪田重太、小松武太郎、小松左津美、佐久間直記、佐瀬鉄太郎、佐藤富江、斎藤豊吉、坂井源吾、東海林新次、田原左近、高木久之進、高木源治、高木可、高橋勝之助、外島泰江、中澤英之進、中山宗次郎、永岡清治、西村四郎、橋爪深、原田勝次郎、日向勝見、日向権六、樋口彦四郎、松永貞次、簗瀬元三郎、柳田岩根、横田勝彦、和田文吾、渡部弾蔵


隊士は以上三十七名、うち戦死者三名
(人数については諸説あり。ここでは参考文献に基づいたもの)


なお、士中一番隊の行動についての詳細は、一番隊の生存者である永岡清治が『旧夢会津白虎隊』(大正十五年、1926年)を書き残している。



参考文献: 早川廣中『真説・会津白虎隊』、宗川虎次『補修 會津白虎隊十九士傳』、中村彰彦『白虎隊』

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