古老の話 飯沼関弥翁談(下)

『江戸読本』 昭和14年6月号所載


 警視庁で会津者を使ってくれたことがあります。これも真偽はわかりませんが、維新後薩摩と長州とが、本当に仲よく行かぬところがあったと見えて、もう十年たてば必ず何かが起るに違いない、その時分にはお前の方に敵を取らせてやる、暫く辛抱しろ、というようなことで、大分使ってくれたらしいです。川路大警視は薩摩の人ですが、会津の者を手馴づけて置くつもりがあったものか、大分早く手を廻したと見えて、明治五六年頃には会津の者で大警部位になっているのがあります。多分そういう大警視の旨を受けてでしょう、斗南へ邏卒募集に来ました。二十歳から二十四五歳の血気の者などは、開墾をやっても成功せず、商法でも損ばかりしている、邏卒でもいいから東京へ出たい、というのが大分あった。警視庁に早く会津の者が沢山入っているのはこの為です。
 その他少し学問の出来る者は、仕官致しますとか、学校に入りますとかいうことで、年数のたつに従い、若い者は大分東京へ出ました。そうでない者は斗南に残ったのですが、どこまでも頑張って残った者は成功しました。故郷忘れ難しで会津へ帰った者もありますが、その多くは難儀して居った。廣澤(廣澤安任 : 管理人注)などは残って成功した一人ですが、三本木あたりにはまだ残って成功した者がいくらも居ります。開墾が成功しないので帰る者があると、あとはそれだけ拡って行くわけですから、残った者は割がよくなるのです。重臣であった人達は皆引上げましたが、家老でありました内藤助右衛門の家は残りました。今でも遺族は五戸に居って、息子が郵便局長をして居ります。昔の老職で残ったのは内藤だけですが、別に開墾をしたわけでもなし、御家老さんですから商法も出来ますまい。その間の事はよく存じません。
 大村益次郎などという人も、会津を引立ててやる側であったそうで、家名再興の時なども、大変骨を折って呉れたと聞いています。会津の者で新政府へ出たのは、山川浩が早い方でしょう。斗南藩になってからは、山川は権大参事になって居りました。当時は大参事、権大参事、小参事、権小参事、大屬、小屬という風な役名でしたが、大参事は即闕で山川が藩庁の一番上を握って居ったのですから、一旦家名断絶しましてから、薩長の方へ接衝したのも山川でしたろうと思う。そこで廃藩置県の時、あれは役に立つ男だからというので、新政府へ召出されるようになったのです。
 山川の妹がアメリカへ行って、新教育を受けて帰って来た。多分教育方面で何かやらせるつもりだったのでしょうが、まだどこにも出ずにいるところへ、西郷従道さんが山川のところへ来て、大山のところへくれぬか、と云われた。前の細君が亡くなった跡で、後妻の話です。山川も陸軍ですから、自然そういう話が出来たものらしい。当人は非常に厭がったそうですが、懇望せられて黙しがたくなったのと、兄が先に承諾してしまったので、厭々ながら行ったのだと聞いています。
 山川が新政府へ出るようになった最初は、谷干城だと思います。戊辰戦争の時、山川は大砲隊長で日光口へ出て居りましたが、土州藩の谷干城が日光口から攻めて行った。戦争しながらも、なかなか会津にはえらいやつが居る、何というやつが大将になって居るか、というので内偵させると、山川大蔵(後浩)という若手の家老だということがわかった。そうか、なかなかうまくやり居る、というわけで、現在撃ったり撃たれたりしている時に、已に山川の名を聞いて居った。そこで新政府が出来てから、斗南藩に山川という者が居る、ということを谷が云い出した、それが山川が新政府に出るようになる真相だということです。後明治十年谷の熊本籠城中、外部との連絡を通ぜしはこの山川中佐でありました。
 容保公は謹慎を免ぜられてから、市谷富久町に屋敷がありまして、そこに居られましたが、日光東照宮の宮司、久能の宮司、それに上野の東照宮の祠官を兼ねられて、僅な月給を貰って居られたのです。公債證書も松平家へは出ましたが、勿論斗南三万石に対してです。それを旧臣の中で、御為を思って何か事業をして、失敗しました為に、いとど御金の無い上に又無くなりました。今以て貧乏ではありますけれども、その当時はまことにつましい暮らしであったそうです。
 そのうちに容保公は五年間郷里へ引込まれる、その間に財政整理をするということで、明治十六年から二十年まで、会津若松の薬園と申します別荘がある、そこへ行って居られました。その間に富久町の屋敷を売りまして、その金のうちで小石川第六天町に土地を買い、小さな家を建てました。新築の出来ましたのは、二十年です。当主の容大公はまだ学生でありましたが、華族の育ちだものですから、財政向きには頓着の無い方で、月々の小遣などもごく僅かしかありません。それに容保公の先代の侍妾であった婆さんが二人厄介になっていたりして、家族は多い上に、昔の婆さんたちは何時までも二十八万石時代のことを考えているので、なかなか倹約は出来ない。随分難儀して、出来るだけの倹約をして居りました。表の方の人間は、家令一人、家扶一人、家従二人位のものでしたろう。奥の方には今申した先代の侍妾が二人、容保公の侍妾が二人、男の子が五人、病身の女の子もありましたから、女中は老女の外に多い時で七八人位のものだったかと思います。昔奥につとめていた婆さんなどがよく来るので、小さい暮らしの割に金はかかったようです。
 斗南藩は救恤金とか、就産金とかいうものを何遍か貰ったので、藩士は公債證書は貰えませんでした。ずっと後、明治四十年頃でもありましたか、斗南藩だけ公債證書を貰えぬのは不当だというので、士族の判を取りまして、行政裁判所へ訴えたことがあります。何でも法律屋が居ってそんなことを云い出したのですが、金を貰うことですから、皆響の物に応ずるが如く判を捺しました。大蔵省を相手に取ってやったところ、この訴訟は勝ちまして、公債を貰うことになりました。藩では二千八百石の人が一番の高取でしたが、この時はそういう禄高には構わない、一戸平均――四人扶持即ち七石二斗の勘定になっていました。それで三百円の公債と端金参拾七円五拾銭を貰いました。是は大正七、八年頃と思います。行政裁判所の判決は大正二年ごろ頃と思います。
 斗南藩の藩札はありますまい。籠城中に城内で拵えて、会津だけで通用した金銀があります。これは札ではありません。婦人の簪その他の貴金属などを集めて作った金です。それを悪用して、後まで贋金を作って刑に触れた者がありましたそうです。
 思案橋事件ですか。あれは長州の前原一誠と相応じて、明治政府を倒すつもりでやったのです。永岡敬次郎(永岡久茂 : 管理人注)というのは斗南藩の時は小参事をやっていた男ですが、これが同志を募りました。先ず千葉へ行って――その頃千葉には会津の者が大分居りましたから、千葉県庁を取ってその金を奪う。それから尚同志を糾合して、佐倉の聯隊を取り、その兵を以て宇都宮へ出て、宇都宮の兵と併せて前原の挙に応ずる、というので、まあ一種の誇大妄想狂でしょう。そういう計画であったところが、警視庁の巡査か警部に裏切ったやつがある。やはり会津者なのですが、これが密告した為に、ソレというので直に手配をした。永岡等も思案橋から逃げ出す。この逃げ出す時に大分巡査を斬りました。けれども千葉まで行けないうちにつかまってしまったのです。
 同志の多くは若い血気の者でしたが、中根米七という者が一人、相当年も取って居り、思慮分別もついていたに拘らずこれに参画して居ります。参謀格だったのでしょう。この人はつかまらずに逃げて、会津へ行って田舎の農家などに隠れて居りましたが、だんだん手が廻って危くなったので、自首して出るか、処決するかしろ、と親友に云われて、自首でずに自殺してしまいました。
 永岡は大身ではありませんが、人物が出来るから斗南藩では小参事に挙げられたのです。当時千葉の警察に加藤寛六郎という者が居りまして、これが大分嫌疑を受けた。併し事実は何も関係は無かったのです。加藤はそれから高知県の師範学校長、福井県の師範学校長、福島県の参事官、札幌の市長、福島の農工銀行頭取などをやって、晩年は隠居して東京に居りました。一度思案橋事件のことを聞きたいと思ったけれども、なかなか話さない。先年亡くなる少し前に、私どもの仲間で漸く聞いたことがあります。当時の同志に井口慎次郎という者がありますが、これは私の亡父や兄なども知って居りました。護国寺で謹慎していた仲間だそうですが、その頃から回復々々と申して居ったそうです。
 会津のいろいろな事を記録して置いた人というのも、あまり存じません。関場忠武という人が、真書筆でよくものを記録するところから、綽名真書筆と称されて居りましたが、この人の書いた史料という本――美濃紙の罫紙に書きましたものが九十何冊かありました。ぞれだけ分量があるのですから何か参考になることがあるだろうと思いますが、本人は疾(とう)に亡くなり、子供は医者をして居ります。親が折角丹精して置いたものでも、子供に趣味が無いと行方不明になる処がありますから、関場の書いた史料もどうなったか、散失しては残念だと常々思って居ります。
 毛利家と会津家とは古く縁組をされて両敬の間でありましたが、元治甲子には御承知の通り、蛤御門で兵火を交えることになった。容大公の弟が山田顕義さんの跡を嗣がれたのは大分後のことです。顕義さんの弟に繁栄という人があって、陸軍大佐位まで行ったかと思いますが、この人の息子が顕義さんの跡を相続したところ、不幸にして早く死んだ。その跡を繁栄さんが相続したけれど、是また間もなく死んでしまった。顕義さんから云えば三代経たあとで、早く相続人をきめなければ、伯爵家が絶えるというので、長州の仲間は気を揉んでいたらしい。松平家へ話を持って来たのは杉孫七郎さんですが、突然そういう話が起ったわけではありません。松平英夫という人は日露戦争当時、乃木将軍の副官をして居られたので、長州の人には乃木さんから、会津松平にこういう若者がある、という話はしてあったのでしょう。杉さんを使いによこしたのは井上馨さんで、杉さんは何度も来ました。いずれ本人次第という返事をして帰したのですが、なかなか返事をしないものだから、杉さんは心配にして何遍も手紙をよこしました。結局話がきまって、奥さんになられた方は顕義さんの一人娘です。その方は先年亡くなられて、只今は他から後を貰って居られます。
 御期待に副う様なお話が出来ないで失礼しました。



注)原文転載の際、旧漢字は新字体に、旧仮名遣いは現代仮名遣いに改め、原文にはない句読点を入れた箇所があります。


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