古老の話 飯沼関弥翁談(上)

『江戸読本』 昭和14年5月号所載


翁は会津藩士の家に生れ、維新前後本藩の艱難を其幼時に閲し、爾後旧主容保容大二君に仕えて、久しく子爵家にあり、今は老を群孫嬉戯の間に養いて、全く世間に相干らざるが如し、然れども旧藩文書に留意し、会津藩教育史、守護職始末、会津戊辰戦史、時雨草紙等、翁の手を借りて公刊せらるたるもの多し。


 私は半端な時に生れ合せまして、戊辰前は学齢に達せず、藩の学校の教育も受けず、明治以後になりましては、生活難の為に碌な教育も受けませんから、御話と申しても然るべき材料の持合せがありません、まことに工合が悪いのですが。
 アア、会津の江戸屋敷ですか。
それは和田倉見附内にありました。和田倉門を入りまして、只今帝室林野局のありますあたりが上屋敷で、その向側の空地になって居りますところに、向屋敷というのがありましたそうです。それらの屋敷の建物は何時頃まであったか存じません。戊辰後直ぐ取払われたものではないかと思います。会津城中の図は残って居りますが、江戸の屋敷の図は無かったか知れません。斗南藩となりましては外桜田狭山藩邸を賜ったとありますが、そこに住いましたものですかどうですか。私は戊辰の時に六歳だったのですから、その辺のことはわかりません。私より十年位大きくても、田舎に居った者ではわからず、定府の者でしたら何とかわかる答ですが、その人々ももう大概故人になりました。
 中屋敷は今のお浜離宮になった辺と承知して居ります。仙台の屋敷と会津の屋敷とが隣合って、その間に会仙橋という橋がかかって居って、仙台と会津とはその橋で往来出来たということです。下屋敷は三田綱町、徳川達孝さんのいらっしゃるあたりかと思います。可なり広い屋敷で、屋敷内で兵隊が調練が出来たそうです。会津のこういう屋敷は、維新後上地でなしに、直ぐ没収されたものでしょう。
 斗南に再興になりましたのは明治二年です。十一月四日家名再立、陸奥に於て三万石を賜うとあります。容大公は二年六月に生れられたので、その方が十一月に家名再興ということになったのです。旧主人の容保公は備前の池田家へ永預仰せ付けられ謹慎中でしたが、此月和歌山藩に御預替命ぜられ明治四年三月実子容大方に御預替命ぜられ、家に帰って謹慎して居ましたが、免ぜられましたのは、明治五年正月です。謹慎中は側近の者がついて居りました。四五人位のものでしょうか。いずれも士ではありますが、何か制限されたものと見えまして、小使という名義でついていた者も二人位あったようです。
 藩中に老幼婦女は若松の在に塩川というところがありますが、その近所の村々に割当てられ、賄扶持を貰って、それだけで食って居ったのです。旧城下には旧藩の者は誰も居りません。官軍の人々が入って、民政局とか何とかいうものを拵えて、政務を執って居りました。
 私は曽祖母、祖母、母、姉などと一緒に塩川へ参りました。いくさに出た壮丁は最初猪苗代、塩川に謹慎させられましたが、後江戸へ護送され、増上寺、護国寺などで謹慎させられて居りましたから、塩川には父兄は誰も居りません。塩川には会津の代官所がありまして、その二室か三室位をあてがわれて、幾家族も居りました。斗南藩が出来てもまだ居ったのです。私が斗南へ参りましたのは、明治四年頃でもございましたろうか。斗南藩が出来ましてから何年か過ぎて、老幼婦女は免ぜられて斗南に移りました。家名を再興された容大公は会津で生れ、東京に来て居られたのでしょう。何分赤ん坊ですから、生母やら、女中やら、家来も四五人はありましたかと存じます。東京に謹慎していた家来の赦されたのは三年正月で、重立った者の赦されたのは五年の正月でした。
 斗南へ参ります時分には、新しく斗南藩に採用された少数の者が御供して行くわけだったのですが、そのうちに謹慎中の者が赦されたので、松平容大に対し、もとの家来を引取れということになった。御承知の通り、会津は二十三万石でしたが、その後加増が五万石あり、天領を私領同様に取扱ってもいいということだったので、実高は三十三万石ありました。それが三万石のところへ行って、暮せる筈がありません。表面三万石といいましても、それは草高三万石で、実高は七千何百石しか無かったそうです。
 そこへ三千人の人間と、家族の老幼婦女が行って、暮せる筈がありませんから、他に方法の立つ者は何とか方法を立てろ、という達しがありまして、商工業の心得のある者は会津に残りますとか、江戸に居りますとか、或は他に参りますとか致しまして、どうしても殿様と死生を共にしなければならぬ、御先途を見届けずには居られぬ、という者が斗南へ参ったのです。一人前一日米三合に銭百文でしたか。前の禄高には構いません、面口扶持です。けれども一日百文貰ったところが、それで副食物から薪炭まで買わなければならぬ。米も三合では足らぬので、粥を啜って居りましたが、粥でも足りなくなって、オシメというものをカテに致しました。オシメと申しますのは、海岸に打上げられた和布(わかめ)に似た海藻で、それを交ぜて炊くと黒い御粥が出来る。磯臭い、頗るまずいものです。これには一番難儀を致しました。
 家は百姓家や何かを借りまして――家賃はあったかどうですか。或は家の空いているところを、会津様に貸して上げるということだったか知れません。はじめ斗南藩庁は五戸郡五戸町にあったのですが、後に田名部(たなぶ)というところに移りまして、そこら各郡に旧臣どもがひろがって居りました。御殿を建てるだけの余裕はありませんから、御寺を以て殿様の居られるところとし、同じ御寺の中に藩庁もあったのです。但藩庁の役人というものは少数でしたから、その他の者は自活して行かなければならぬ。前申上げたような扶持を貰いつつ、開墾などをやって居りました。
 私どもは五戸在の種原というところで開墾したのですか、藩庁で建ててくれた掘立小屋が、五十戸位あったかと記憶して居ります。開墾の土地は一戸に就て一反歩位もありましたろうか、今まで原野であったところですから、鋤鍬で墾いて行こうとしても、なかなか力が足りませず、殊に肥料がありません。かすかにおぼえがありますが、南瓜などを作りましても、寒いところの上に肥料が足りませんから、青い小さいものしか出来ない。食べてみると、みずみずしてまずいのです。主に作りましたのはジャガ薯ですが、これも青い小さい薯しか出来ない。茹でて食べても、一向旨味が無い、えがらっぽいような味でした。私はその頃十歳位になって居りましたので、やはり母や姉と薪を採りに行きまして、枯枝などを拾って、無調法な束ね方をした柴などを背負わされたものです。
 会津の武家ははっきりおぼえませんが、三千戸位ありはしなかったかと思います。そのうち五百戸ばかりは若松に残って帰農又は帰商致しましたから、斗南へ参りません。その他に二百十カマドと、他邦活計の者が二百戸で、九百ばかりになりますから、斗南へ移ったのは二千ちょっと位でしょうか。会津に残って活計を営みましたのは、大概軽い身分の者です。平素から職を持っていて、刀の縁頭(ふちかしら)、柄巻、鍔の彫刻、刀鍛冶、槍鍛冶又漆器蝋燭などをやる人もありましたから、そういう人達が残ったのです。中には随分大身で残った人もありますが、この方は極めて稀でした。織物は婦人の仕事で、軽い者ばかりでなく大概な家には機(はた)がありまして、自家用の著物はうちで織ったようです。よく年寄などが指を嘗め嘗め真綿を引出していましたが、それで紬を織って自家用にするようなことは、かなりの知行取の家でもやって居りました。
 会津の人達はそういう風で、随分苦しんで居りましたから引緊っているところはあったかと思います。何が仕合になるかわからない、維新後公債を貰ってぶらぶらして、それが無くなると云っている人がありました。一人藩の者で、明治になって北海道へ渡りましたが、豆腐の好な人で、毎日々々豆腐を借りて食べた所、其代を払うことが出来ない。何年かの豆腐代が溜って、遂に自分の娘を取られてしまった、というような笑話を聞いたこともありますが、嘘か本当かわかりません。



注)原文転載の際、旧漢字は新字体に、旧仮名遣いは現代仮名遣いに改め、原文にはない句読点を入れた箇所があります。


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