原田伊織翁の直話


伊織翁は白虎隊の半隊頭たりし原(田)克吉の後身である。曽て翁をニノ丁の十軒長屋に訪うて、戊辰当時の実歴談を聴聞した。

今や翁は他界の人となり、今昔の感に堪えず、記憶をたどりて大要を録せん。



我が士中二番白虎中隊屋並触に接して城内に詰めたのは、八月二十ニ日の午後の一二時頃であった。中隊頭が日向外(内)記、小隊頭が山内蔵人に水野勇之進、半隊頭が自分と佐藤駒之進であった。

自分は城に詰めると、軍事方に掛合って良い鉄砲を受取り、五人で頭分に謁したが、頭分から五人に向って懇篤なる御言葉があり、五人は感奮し勇ましく御受を致し、隊伍を整えて城門を繰出した。

瀧澤までは若殿天山候の御供を致したが、御本陣に着くと半分だけ戸ノ口に向えと命令があった。 意見を建白した結果、一同進軍のこととなり、勇躍して強清水に着いたのは日のくれぐれであった。

先ず戸ノ口原の南部を守れる味方に加わり、第一の山に胸壁を築いて守に就いた。

自分は隊長中の少壮者なれば、津田を嚮導として斥候に出た。人影のあるらしければ、匍匐して偵察した。

その中に若松より出張せし新撰組などに場所を譲り、向って右の山に移りて固め、二十三日の眛夾七人を率いてあの溝渠にたどりて遠く進み、東方より射撃した。まもなく本隊は敵に追われ、自分等はあまりに進み居りしため、重囲のうちに陥った。止むを得ず、迂回して原街道に出で、沓掛の坂に赴きしに、所々に死屍あり。坂下には数多の敵兵あり。乱射するにより再び東方に退き、赤井山を攀つ。此辺にて部下の一人田(多)賀谷落伍せり。

それより藪をくぐり、岩を越え、互に声をかけ合せて進みしに、とある茸小屋に出で、とがぬ米五合と松茸若干を煮て貰い、腹をこしらえ、猶も進んで漸く愛宕山の頂上に出た。

愛宕山のすてっぺんより御城を見れば、火焔が盛んに起る。がっかりして一同死を決し、道具を投げ出し、環坐して切腹せんとした。

偶敢死組の一人小池辰吉来り、軽率に死するはよろしからず。御城の安否を確めて進退すべしと異見を加えられ、我にかえりて見れば、未だ天主閣見ゆ。因って一同に腹を切るは容易なり、犬死となるは口惜し。敢て腰をぬかしたるにあらず、一人にても敵を多く殺して死なんと相談せしに、一同同意せるにより、再び結束して愛宕祠に下り、水尾に就きて御城の安否を質せしに、未だ落城せず、あの通り鐘を撞く、と。我等は大に喜び、速かに入城して上の御安否を伺わんと勇み立つ。

水尾は飯あれば充分に腹をつくり、充分に働きくれとて馳走した。これより自分は先頭となり、天寧寺町に出でしに、店はのこらずしめありしも、裏よりはいることができた。一休み休みて御門に近づきしに、多くの敵兵門を守りて近づくべからず。時は卯八ツ、即ち二時頃であった。よりどころなく、一先ずさきに休みし場所に退きて部下を休ましめ、自分のみにて御門の様子を伺いしに、幸なるかな、敵は何故か喊声をあげて一ノ丁を下れるにより、急ぎ戻りて一同を連れ御門を入りしも、一ノ丁は通ることができず、堤伝えに辰野家の裏に行き、不明門より入らんとせしに、一番白虎隊は堤上より射撃して危険甚しい。大声をあげて味方なるを告げしに、早く来い、早く来いといわれ、漸くに入城することが出来た。

入城後、隊長の日向が部下に構わず退き来れるの不都合を叱責せしに、上役の制止によってやめた。

赤井山を逃げる時、部下が「コーチョー、コーチョー」と後方より呼びかけた声は、猶耳にある。

部下白(城)取氏、未だ健かにして神戸にあり、先年尋ねて来てあった。



原文 : 秋月次三「白虎隊誌」所載 会津図書館蔵版より




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