三の丸の籠城に就きて

郡寛四郎


 私は明治戊辰の役には十一歳の少年でありましたが、籠城の前日である八月二十二日の晩から、大砲の音が聞こえましたが、翌日の二十三日には明け方から盛んに小銃の音を耳にする様になりましたので、朝の六時頃に門の外に出て見ましたのに老人組の隊士が多勢槍を提げて北出丸から入城するのを目撃いたしました。八時頃に朝食を済まして、祖父母と母と兄妹五人に林家の家族達と共に三の丸に入りまして、南側の土手の辺に籠城いたすことになりましたが、此時叔父の鈴木多門が来りまして面会いたしましたのに、母(たに、三十五歳)は自盡(尽)を決意いたしまして、子供等五人と共に其の介錯を頼みましたので、叔父は之を承知しまして、将に其の手筈に掛かろうとしました時に、小姓頭の某が来まして、未だ本丸には、御姫様が御出でになって居るから、行って死生を共にせられよと、諫められましたのに依りまして、自刃を思い止まりまして、本丸の大書院に参り、更に照姫様の次の御部屋に四五十人程の婦人子供達と共に屯いたしましたが、其の床の間には清正公の掛物がありまして、一同にて南無妙法蓮華経の御題目を唱えました。其の後開城迄、斯くして籠城して居りましたが、最初三の丸に入城の際に小姓頭が来合せなかったならば、一家自刃して終りましたのに、人生運命の数奇と云うものは、真に間髪を入れないものであると云う事を感じました。



原文 : 「会津史談会誌」第16号(昭和1210月)戊辰戦役七十年記念号


注)原文転載の際、旧漢字は新字体に、旧仮名遣いは現代仮名遣いに改め、原文にはない句読点を入れた箇所があります。

■郡寛四郎は、家老・萱野権兵衛の三男。明治3年、豊津(元小倉藩)留学中に自刃した郡長正は次兄。中国革命の先導者・孫文を助けた義侠の人としても知られています。


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