追憶談

宗川虎次


 我が家は鶴城西堤外、石塚観音堂附近にありました。兄の虎松は十五で、父熊四郎の勤番に伴われ、京都に赴き、徳大寺邸の護衛に選ばれ、居ること二年で帰国し、未だ白虎隊の編制前だったので、数名の年長者と井深隊に入り越後に出陣しました。
 戦争中御小姓に召されました、君命なれば取りあえず一旦帰国しましたが、戦友と戦死を予約をしておいたからとて拝辞し、再び同隊に入り転戦利あらず衆と共に柳津に入り、西方村で銃丸に傷ついて遂に耶麻軍大塩村の長泉寺に没したということです。時に年十七でありました。

 父熊四郎は年四十で京都勤番から帰国し、朱雀半隊頭に任ぜられ、出陣の際には、少年時代から武者修行して宝蔵院の槍を以て固めた身であるからとて鉄砲を担がず、太く短い一本の槍を提げ、山川大蔵殿と日光に赴き、幕臣大鳥圭介諸氏と共に防戦し、後、中地口に転じました。
 右の次第で、家に居りしは三十四歳の母すみと長姉十四と次姉十一歳と八歳の私のみでありました。
 かねて私達は、母から御城の早鐘が鳴れば、藩士の婦女子共は、全部必ず御三の丸に入り、姫君の御身を守るのだと聞かされて居りました。
 母は、二十二日徹夜して、その準備として当時流行の「ガッサイ」袋を縫い、之に宗川家の系図の巻物や懐剣等、必要の物を入れました。
 天未だ明けざるに、砲声漸く近くに聞こえて来たが、我等三人は、庭園中にある栗の実拾いに出でて余念がなかったのでした。
 早く朝飯をたべよと、母に呼ばれて家に入り、袂より栗の実を出しおき、朝飯をたべ終わり、いよいよ入城の支度とて新しい衣服を着せられ家を出ました。
 母は我等を門外に待たせおいて、厩に入り馬を見、長屋に入って下男に申すには、長々世話になったお前はこの馬をひいて村に帰れといって、馬と下男に別れ我等を促して川原町御門に急いだのでした。
 母は未だ入城してことなく、通路も不案内だったので、かねて同道を約した親戚酒井与一郎方へ立ち寄って其の支度するのを待って居りました。
 酒井家には八十余歳の病める祖母が居りましたので、之を背負って行く人を探し、手間どるうち、放火して家を出た人がありましたので、火災は所々に起こった上、城門も既に閉ざされたと聞き、酒井家に戻り、同家の知人の居る米塚村に落ち行くことになりました。
 酒井氏の家族は、八十余歳の老母と六十一歳の姑と三十五歳の嫁と十五歳の娘と居り、我等を合わせて計八人大雨を侵して出発しました。
 避難の人達で大混雑の間を、もまれてもまれて大川の東岸についた頃は、母と私と酒井家の老母と姑とは離れなかったが余は何処へ行ったかわからなくなりました。
 毎日の雨で、大川は出水して橋が流れ失せています。我等は辛うじて農夫を押え、金貮分を与え懇請して、つぎつぎと大川を背負って渡して貰い、漸く目的地なる米塚村に着きました。
 しかし米塚には、酒井の母子と老母と私の姉達は何の家にも居ません。定めし、途中で踏み殺されただろうと心配でなりませんでした。
 我等のおちついた家の老人は、我等を慰めていうのには、四人づつ離れられたのは他にあらず、舟に乗られし人と背負われし方と大川端ではぐれられたに相違ないが、元来御前様方は何処を目指して来られたのか。我が母は答えて「ただ米塚は何処とのみ尋ねて、当家へ来たのです」。老人重ねて言うのには「何故に米塚へと目指されたのか」。酒井の姑がいうのには「殿様の御馬を飼い居る知人にたよろうとしたのです」。手を拍って「安心、安心」それは我が上米塚ではありません、隣村下米塚の三郎方に相違ない。御連れの方達は定めて待って居られることだろうとのことで、喜んでその三郎の家をさがして行きますと、果して酒井の母子と老母と我姉二人も先着して我等を待って居りました。
 我等は八人の多数なので、夜具などは間に合う筈はなく、着のみ着のままで床につきました。
 東方は兵燹とて満天は紅色漲り砲声しきりに聞こえて、夜半までねむられません。明日以後は皆々身を如何しようかと物語りして夜の明くるを待って居りますと、勝手元で時ならぬ焚火を始めました。稍(やや)あって、家の人が入って来て之はさつま芋と申すもので、此村では近来はじめて作ったものでありますが、御前様方の御口には合うかどうかと、盆の上にもりもりと出してくれたので皆はほんの初物として喜んでたべた。その芋の太さは親指位、長さ二三寸、肉は筋が多かったがまことに珍しく、美味なので、舌打ちしたのは長く忘るることができない。爾来七十年の今日と雖も、さつま芋を見る毎に其の昔を思い出し、之を思い出す毎に、殆ど買わないことがない。
 斯くて、二十三日は過ぎて二十四日午後に至り、村人の話に藩士の家族に宿を貸しておけば、官軍が来てさがし調べらるるから、皆農家の衣物を着、猿袴をはき、我等と同じく田畑に稼ぎ居るまねをして居られよとの依頼があり、成るべく粗末な上着を借り、家人より共に家を出で堤外で休み居りましたが俄か作りの百姓なので、顔色は白く、手拭の冠り方も下手で、忽ち見廻りの官軍に見つけられ、質すことがあるから幼い子供はそこに置いて我があとについて来いと、恐ろしき権幕を示したので、酒井の姑はびくともせず直ぐ立って、敵の手首をつかんで、曰(のたま)うには、子供を此所に置いて大人ばかり行くことは成らぬ。何事にあれ、此所で質されよと押し問答したので、相手は何と思ったか笑いながら立ち去りました。
 我々は虎口を逃れた心地で、待って居た村人に、その話をしますと、大に笑って、奥様方如何なに百姓の家内であると偽られても、言葉は卑しくなく顔色が白いから駄目ですというので、酒井の母子は泥水を顔に塗り、之で大丈夫だろうとてんでに鎌や草束を手にして其の家に帰った。
 それから毎日、朝から夕方、また或は田畑に出、或は堂宮に休み、或は身を林の中にひそめ、或は番小屋に日暮を待ち、開城の時まで此の村に居りました。其の間に酒井の老母の病没は痛恨に堪えなかった。
 既にして開城となり、兄の戦没も判明し、生存の父祖等は城を出で、官軍の護送で猪苗代に謹慎となり、祖父は七十以上なので釈放せられ、我々と共に公然河沼郡笈川村鴻巣又吉方に割付られ、明年父の許なる東京の旧幕府の旧邸に移され、戦死した兄を除くの外、父子夫婦久々にて面会し、悲喜談笑しました。其の秋に至り、父は南部に行かず、旧藩公に代わり北門守りの為という名目のもとに、同役生存者多数と、北海道余市へ開拓総督の下に、我々を引き連れ、東京品川湾より外国汽船で小樽に赴いたのであります。



原文 : 「会津史談会誌」第16号(昭和1210月)戊辰戦役七十年記念号


注)原文転載の際、旧漢字は新字体に、旧仮名遣いは現代仮名遣いに改め、原文にはない句読点を入れた箇所があります。

■宗川虎次は、『補修 會津白虎隊十九士傳』の著者。他にも会津関係の著作多数あり。


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