感 想

丹羽五郎


 戊辰役に五郎は白虎の年輩なれ共、幸か不幸か当時一戸主なれば相当の職役に就き、諸隊に編入せられざりし、則ち若松城の包囲を受けし前日(八月二十二日)御召により登城せしに、御家老内藤助右衛門氏に導かれ御前に出で老公より御直に日光に総大将山川大蔵の陣所に行き至急引揚の命令伝達を命ぜられ、五郎は御使番として従者二名を従い、御城より直に田島の本陣に至り、君命を伝い、本隊と共に入城せり、五郎は曩(さき)に幸子天山公に従い福良に出張せし外何等の御奉公をなさりしは終生の恨事なり。今や白虎隊は、伊太利国記念碑建設の壮挙に遭遇し、乍らにして世界的の物となれり、豈欽羨に堪ゆえけんや。
 白虎隊中、永瀬雄次(十六歳)は五郎の従弟にして、篠田儀三郎、津川喜代美、野村駒四郎、簗瀬勝三郎、間瀬源七郎(以上十七歳)、井深茂太郎、西川勝太郎、簗瀬武治、有賀織之助(以上十六歳)の九名は皆若松城下本二之丁、本三之丁に住し、五郎が竹馬の友なりし、赤羽四郎(十六歳)、柴四郎(十七歳)の如きは、既に故人となり、山田男は十五歳なれば未だ白虎隊の年輩に達せざりし。
 回顧すれば、既に五十九年の昔となり、身は既に七十五歳の老翁と化せり、豈感に堪ゆえけんや、聊(いささ)か感想を弁し、一に貴社の御取捨に任せり。



原文 : 「新東北」第17巻第190号(昭和1年10月発行)会津白虎史


注)原文転載の際、旧漢字は新字体に、旧仮名遣いは現代仮名遣いに改め、原文にはない句読点を入れた箇所があります。

■丹羽五郎(1852 - 1928)は、御代官を務めていた会津藩士・丹羽族(やから)、家禄百石の次男。本家は家老の丹羽寛治郎(表御用人書簡役として京都勤務)で、当主の寛治郎が文久三年に病死した為、養子に入り、十二歳にして当主となった。慶応四年、寛治郎の妹・豊子と結婚。会津藩降伏後、猪苗代から東京へ送られ、謹慎。斗南へは移住せず、藩籍を離れ、平民となり、東京で勉学に励む。明治五年、田村五郎と変名、邏卒(らそつ:巡査)に応募。翌年には巡査部長に昇進。明治十年の西南の役には志願して出征、田原坂で奮戦した。明治二十二年に北海道を訪れ、開拓事業に係わる。二十四年には警察を免職、開拓に専念。後の「丹羽村」開拓者として名を残す。

参考文献 : 会津郷土史料研究所「慶應年間 會津藩士人名録」、前田宣裕「会津戦争の群像」




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