會津藩白虎隊之覚書


寄合組白虎一番中隊生残者 高木八郎



一、慶應四年三月、白虎隊を編ぜられ、人員百五十七人を二分して寄合組白虎一番中隊、同二番中隊とす。

一、御城内三の丸に於いて、兵式の訓練を受く。

一、同年七月十二日、越後口関門固めとして出陣を命ぜられ、十五日未明、隊長本三の丁原隼太殿邸に集合(二番隊は太田小平殿邸に集る)して出発す。同夜、河沼郡天谷(天屋?)村に一泊、十六日野沢駅泊、十七日津川町泊、十八日一番中隊は諏訪峠を越え赤谷口へ着し、我軍(味方=会津軍のこと)に合す。(二番中隊は阿賀川を下り、石間に至る)
十九日より日々小戦あり、若林八郎戦死す。

一、八月十三日未明、寳晶山に陣せる西軍を攻撃す。我軍奮戦、西軍の陣地を占領す。西軍互いに死傷あり、追撃して山のうち宿を衝かんとす。(新発田領)時に西軍大挙して来り、我軍利あらず、赤谷口へ退却し、終に同地を保守する能わず。津川に退却、金比羅堂の高地に據り胸壁を築き、固守す。各隊、この地の西に陣す。阿賀川沿岸又は常並川を隔てて金上城趾陣するもあり、時に石間口の各隊来りて合す。我軍、固守して西軍の来るを待つ。

一、八月十五日午前、西軍は川向の津の島村まで押し寄せ来る。我軍、機を見て一斉射撃を行う。西軍、右往左往に散乱し、午後遂に退却し、其死傷算なし。是より二十四日迄、敵兵来らず。同日、西軍は諏訪峠の中半に大砲二門を据付け、我軍を砲撃す。一番中隊藤森八太郎、高崎駒之助戦死、樋口八太郎負傷す。

一、八月二十四日朝、東口の西軍、石筵を経て城下に迫りたる報知あり。この時、隊長の訓示にあり、夕刻津川の陣地を引き揚げたり。

一、八月二十七日、船渡村に着す。同村の高地只見川舟場の上方に陣を布き、西軍の来襲に備う。二十八日、西軍川向の高地より来り陣す。是より日々対戦、二十九日、星八弥戦死す。

一、九月五日、城下の西軍後方より押し寄せ来りたる為、挟撃せられ、防戦に由なく間道より朝立村に至り、山径を越え河沼郡鍛冶潟村に出て、更に南して中田村に一泊す。六日、下荒井村を経て大川を渉り、住吉川原を過ぎ入城して三の丸費が東土手を守る。

一、我隊は、船渡村の戦に別れ別れとなり、我らは半隊長佐藤清七郎外十七人となりたり。而して一個小隊は窪村に在りて出てて戦いしも利あらず、喜多方に引き揚ぐ。この時、岸彦三郎戦死す。尚、他の一団は、柳津村方面に往きたるもあり、或いは田沢越えして喜多方地方の軍勢と合して熊倉の激戦に参加したるもありき。但し、其の人員約二十名とす。遠藤清臣この役に戦死す。

一、佐藤半隊長外十七名は、朝立村山上にて二番中隊と合し、並に行動を同す。この時入城したるは約四百人とす。

一、九月十四日、小田垣進撃に佐藤半隊長戦死せられたるにより、我等十七人は二番隊長原隼太殿隊
(原隼太は白虎寄合一番隊の中隊長であるので、ここでの二番隊とは筆者の高木八郎が属していなかった半隊の事と思われる)に属す。後、原隊長は一の堰の激戦に戦死せられ、白虎隊樋口勇四郎も同所に戦没す。




原文 : 「新東北」第17巻第190号(昭和110月)会津白虎史



注)原文転載の際、旧漢字は新字体に、旧仮名遣いは現代仮名遣いに改め、原文にはない句読点を入れた箇所があります。また、文中の茶色の( )は、管理人の見解です。

■『寄合白虎隊』(堤章著)によると、筆者の高木八郎は戦後、城前の旧沼沢出雲邸の一角に建てられた十軒長屋(現在は会津交通梶jで家塾を開いていたそうです。


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