林八十治書簡

 

白虎士中二番隊自刃十九士の一人である林八十治が慶応4年8月9日付にて当時越後に出陣していた父忠蔵宛に書いた書簡を現代口語訳してみました。出陣直前の白虎隊士の手紙として、貴重な一次史料といえます。
原文は、『白虎隊事蹟』(中村謙著)、『歴史と旅』昭和57年10月号掲載の「白虎隊奮戦記」(白虎隊記念館編)を参考にさせていただきました。現代語訳は、原文にはない句読点や改行、黒色の( )内の説明など、文章を判りやすくする為に補った箇所があります。また、
赤色の( )は研究者の方にご教示いただいた説明、言葉の意味の注釈です。
難解な点は、研究者のM氏にご教示いただきました。色々お世話になり有難うございましたm(_ _)m。



(原文)
 愈々(いよいよ)遠藤伴助様御登りに付鳥渡(ちょっと)申上候。次第に冷敷方に罷成候得共弥(いよいよ)御機嫌克被遊御座候由誠に以て恐悦之御儀奉存候。爰元(ここもと)家内一同大無事に罷過申候間御安心御思召可被下候。小生も先之廿五日御供にて福良を立ち其晩に原へ御泊り相成翌日は赤津の少々手前より猪苗代へ御泊り被遊即日見禰山へ御参拝被遊一晩泊り廿七日着仕候。千石御叔父様にても先月廿九日大平の方へ御出に相成候。先以て御苦労至極に奉存候。扨(さて)先之廿七日着仕候処俄に赤谷口破れさうだ抔(など)申咄(はなし)有之上下大さわぎに相成候処俄に宰相様心有ものはくつつきて来り候半(そうらわん)とて極急に御出馬被遊候に付一晩だけは御城へ罷出居候。御軍事方の者共御連被遊余り急にて一文もなく大こまりの人抔(など)も有之候由御聞申候。一晩坂下(ばんげ)へ御とうりふ被遊其より御供揃に相成御出馬被遊候へば御戻しに相成候。然し只今も野沢へ御とうりふ被遊候様子に御座候。士中白虎一番の方も廿七日に懸り中一日置て又御供にて罷登り小子隊は若殿様御警衛の都合に相成候。今度も東西の大難戦に相成誠に以て大こまりに御座候。小生も又心懸は被仰付候へ共今に出向きは不仕候得共近日には東方へでも参り候都合に候半(そうらわん)と奉存候。扨(さて)御地の事は何とも可申上様無之次第誠に以て御苦労千万に奉存候。外にも申上度事海山より御座候へ共猶又後音に申上候。謹言
  八月九日夜急ぎ認                         八十治より
                                          光芳

  父上様
 尚々此間大江様御上りの節御手紙被下彼の御手紙にては誠に気味能方御手紙に御座候得共只今はつまらん事に相成申候。

(現代語訳)
 いよいよ遠藤伴助様が御登りに付き(おそらく、長岡方面への出陣)少々申し上げたい事があり、お便りいたします。
 次第に涼しくなって参りましたが、お元気でいらっしゃるとのこと、誠に嬉しく思っております。こちらは家族一同無事に過ごしておりますので、ご安心ください。私も先の二十五日、(若殿様の)御供にて福良を発ち、その晩は原にてご宿泊、翌日は赤津の少々手前より猪苗代にて宿泊され、即日見禰山へご参拝、一泊された後、二十七日に(若松へ)帰着いたしました。先刻、叔父様も先月二十九日、大平の方へ出発なさいました。本当にご苦労様なことと存じます。さて、先の二十七日に戻りましたところ、俄かに赤谷口が破れそうだ等との噂があり、身分の上下にかかわらずつまり藩中が)大騒ぎになりましたところ、宰相様(松平容保公)が心あるものは共に来るがよいと、急にご出馬なさることとなり、一晩だけはお城に居られました。軍事方の方ではあまりに急なことにて、一文もなく(当時は自腹での軍役のため、文字通り軍資金が整わず)大いに困る人等も居られると聞いております。一晩坂下に逗留され、それよりお供の者を揃えてご出馬なさいましたが、お戻りになられるとのことです。しかし、今も野沢に逗留なさるようです。土中白虎一番(隊)の方も、二十七日にかかり中一日おいてお供することになりましたが、私の隊(土中白虎二番隊)は若殿様(松平喜徳)警護役となりました。今度も東西の大きな戦となり、誠に難儀なことでございます。
 
 私もまた出陣の心がけ(準備)を仰せ付けられていますが、今すぐの出陣はありません。しかし、近日中には東方へ出陣することになろうかと思われます。さて、そちら(越後長岡)の戦況は何と申し上げればよろしいのか、言葉を失いますが、誠にご苦労千万に存じます。他にも申し上げたいことは山のようにありますが、なおまた、次回書簡にて申し上げます。 
  八月九日夜急ぎ認                         八十治より
                                          光芳

  父上様
 ところで、この間、大江様が若松にいらした際、手紙をいただきましたが、その手紙では誠に小気味よい内容(長岡での戦況の好転)でしたが、今となってはつまらない事態になっております(戦況の悪化を指す)。


■遠藤伴助(後源大輔と改む)は、父の再従兄にして後に会津山三郷間ヶ澤村戦争の際戦死。
■叔父とは父の実弟、角田五三郎のこと。9月24日、会津南山大芦村戦争の際、23歳にて戦死。
■大江氏は和右衛門、父と同じ一ノ瀬要人に就き越後へ出陣。大江氏の手紙とは、氏が急の御用にて若松へ登った際、越後方面の戦況(長岡城の敵を追い払い、味方が城を奪還した事)を報せた手紙。その後再び形勢が悪くなり、八十治は「つまらぬ事に相成」と述べている。

【豆知識】 「千石」=「先刻」の当て字。「先以て」(まずもって)は「本当に」「非常に」「誠に」等の意味。



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