渡部家文書

 

この文書は、明治三十三年三月九日に渡部ムメ(自刃後の飯沼貞吉を最初に発見した人物とされる渡部佐平の長男の嫁)が飯盛山に地所を持つ飯盛正信に語った飯沼貞吉救助に関する事実を、飯盛正信が書き取ったと思われるもので、解りやすいように現代口語訳してみました。尚、原文にタイトルは付いていませんが、専門家が書かれた白虎隊関連の研究・解説書にて「渡部家文書」とされているので、当サイトでもそれに従いました。
原文にはない句読点、「 」
(←人の台詞)や( )(←説明の補足)等、文章を判りやすくする為に補った箇所があります。また、茶色の( )は管理人の見解です。



 明治元年八月二十三日、飯盛山において白虎隊一同自害せんとて腹を切り、飯沼は咽喉を突き、倒れたまま大雨が降る中、何者かが白虎隊士の倒れているのを見て懐中を探り盗みを働こうとしたが、飯沼は気がついてその手を掴み、敵かと思って離さずにいると、その者は拠所なく(仕方なく)口上を立て直し、「旦那さま、(死に)急ぎなさいますな」と申して、「私どもの隠れている山までお連れいたします」と口上直して、飯盛山の自害した(場所に近い)堰端で水を飲ませ、堰端に沿って慶山八ヶ森という岩山まで連れて行き、「水を汲んであげます」と言って飯沼を騙して刀を持って逃げ失せ、それとは知らぬ飯沼が「忠ギ(中間のことか?)、忠ギ、水をくれ、水をくれ」と言うのを聞いたのは、慶山村の渡部佐平という者であった。

 その時佐平は五十九歳で、その(長男の)嫁ムメは二十七歳であった。また、下堀端の印出ハツという士族は渡部佐平を頼って出て来たところを助けられ、この三人で山に隠れており、佐平が薪を取りに出掛け、茸でもあるかと思い(八ヶ森に)行ってみたところ、「忠ぎん、忠ぎん」と呼ぶ声を聞き、(隠れている山に帰って)「官軍に撃たれて倒れている者がいる」と騒いでいると、印出ハツが「私の息子も白虎隊に出しているので、もしかしたら息子かもしれない」と言うので、ハツも(ムメ達と)一緒に行ってみると、ただ「忠ぎん、忠ぎん、水をくれ、水をくれ」と言う者がおり、「水は此処にはありません。私どもの居る処までお連れしますが、御名は何と申されますか?」と訊ねると、「本三之丁、飯沼の二男、歳は十六」と返事があり、ムメは自分の手拭いを取り出して飯沼の咽喉の突き傷を結わえて留め、其処から(隠れ家のある)小字袋山という岩屋に連れて行き、水を飲ませ、血だらけの上着を脱がせ、履物を取ってやり、その衣服を遠方に捨て(飯沼が着ていたのは軍服なので、新政府軍に見つかるのを避ける為と思われる)、ムメの山着物と山袴に着替えさせ、箪笥と布団の陰に隠して三日三晩匿い、介抱していたところ、官軍が山までやって来て「敵(会津兵)はおらぬか」等と申すので、飯沼を匿っておく事が出来なくなり、(飯沼が)「一ノ堰まで参りたい」(喜多方方面の一ノ堰と思われる)と申されるので、印出ハツと飯沼の二人は夜になって渡部佐平に連れられて山を出たが、滝沢村は既に官軍が警護を固めていた為、隙を見て道を横切り、白禿山にかかる処で印出ハツに飯沼の事を頼み、佐平は元の山に帰った。飯沼と印出ハツの二人は塩川病院へ行ったが、戦いが激しくなり塩川にも居られなくなったので、塩川より橋爪勇記殿(印出ハツの伯父?)に連れられ(喜多方の)入田付村に向かい、山中の不動山という処に印出ハツとハツの伯父と飯沼の三人にて、(会津藩)降伏の後九月二十五、六日まで隠れていた。此処は古くから魔物が出て人が住めない処だと聞いたが、人家に居るわけにはいかないので仕方なく三人で其処に居る事にしたが、毎夜毎夜凄い物音がするので、印出の伯父が猿を買い求めて置いておいたところ、或る夜、猿が何かと喧嘩をして大騒ぎしているので何事かと思い、夜が明けてからよく見てみると大きな古むじな(古狸)を食い殺していた。この古むじなの為に、近所の人々は化け物が出ると言って不動山に参拝する者もない、というくらいの事であったが、その古むじなを取り除いて(殺して)からは不動山も荒れなくなったと、印出ハツと印出の伯父の二人が慶山村の渡部佐平宅を訪れ、去る八月二十三日に預けておいた刀や諸道具を引き取りに来た際にその古むじなの皮を着ており、一件を詳しく聞かせてもらい、預かっていた刀や諸道具をお渡しした。


 この事実は、明治三十三年三月九日に渡部ムメより飯盛正信が直に聞いたものである。ムメは本年五十九歳、当戸主は渡部佐吉といって三十四歳である。今般、渡部ムメ大病に際し残念に思うのは、戊辰の年八月二十三日四時頃より飯沼をお匿いして看護し、その上喜多方方面までお送りしてから後は一度もお目にかけず、葉書一枚も寄越されないとは何故かと思うのと、飯沼の家族の方々までが(貞吉は)飯盛山で自害した処より直ぐに喜多方へ印出ハツに連れられて行ったのだとお思いになっている、と聞いた事、私の父佐平の忠義が今もって知られていない事。慶山小字袋山にて三日三晩の事は、私の父と私よりほかに慶山村の者で(飯沼を)お救けした者はおりません。もし居ると言われるなら、それはさらに嘘でありましょう。おられるならば、本日より慶山村渡部ムメ方までお出掛けになり、その旨申し出て下さい。

 明治三十三年旧三月二十五日
 白虎花祭りに付き 辰野始め諸君(花祭りに集まった人々)へ右の段御咄(はな)し申候也



原文 : 秋月一江『飯沼貞吉救助の実証を追って』(会津史談 第50号)に全文を掲載



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