戊辰戦争実歴談

 

白虎士中二番隊生存者の一人である酒井峰治が書き残した手記、『戊辰戦争実歴談』を現代口語訳してみました。
文中の黒の( )は原文にもあるものですが、原文にはない句読点や、「 」(←人の台詞)等、文章を判りやすくする為に補った箇所があります。また、茶色の( )
は説明の補足や管理人の見解、漢字の読み方、言葉の意味の注釈です。原文の魅力を損なわないよう気をつけながら、出来るだけ読み易い現代文に改めたつもりですが、管理人は歴史の専門家ではなく、あくまで素人の解釈にて訳したので、読み違いや意味の取り違い等もあるかもしれません。故に、現代語訳が100%正確であるとは思わないでください。
尚、あやふやな点は、研究者のM氏にご教授いただきました。師匠、色々お世話になり有難うございましたm(_ _)m




 今般福良村ニ出張精々尽力ノ段一統大儀
 右の通り福良村へ出張の際に大殿様より城中大書院に於いて御言葉を給う。
 茲(ここ)に記憶を録して此編の緒言とする。


   戊辰戦争實歴談

 慶応四年三月中、白虎二番士中隊に配属され、城中三の丸に於いて幕人畠山某(旧幕府歩兵差図役・畠山五郎七郎)ほか幕府旗下の士数名及び会津藩士柴五三郎氏ほか両三名に就いて、三月中旬より七月七日までフランス式の軍事訓練を受けた。
 七月八日、若殿に随従して福良村に出張中、毎日訓練を続け、その山中にて散兵し空砲を放ち、若殿に披露した。常用した銃は「ヤーゲル」で、これは火門が塞がり弾丸を発するのに苦慮した。村の東側は一番隊、西側は二番隊が番兵を出していた。福良村より直ちに原村を経て、若殿が猪苗代峰山土津公神社に御参拝されるのに従い、猪苗代にて一泊して若松に帰った。時に寄合白虎隊が若殿のお出迎えに長泥に出ていて、その勇壮ぶりに喜躍した。

 さて、八月二十二日に至り、敵軍が戸ノ口原に来(きた)るとの報せが入り、その日の十時頃に隊長日向内記の邸に同隊の者が続々と集まった。皆で「ヤーゲル銃は役に立たないので、別の銃を持って戦場に赴きたい」と城中の武器役人に申し出たが、「他には予備の銃しかなく、これらを渡すわけにはいかない」との返事だった。それを聞いて隊中に激怒する者があり、「無用の銃を持って戦場へ行けと仰るとは何事か、(性能の良い銃を貸さぬと言われるならば)貴方がたを殺し、我らも自決する」と大声で言い放ち、ついに馬上銃(マンソー銃か?)を受け取った。馬上銃は短くて軽く、我々白虎隊にとって大変扱いやすいものだった。

 二十二日、君公(藩主・松平容保)に従って蚕養口に出る。時に塩見常四郎(家禄百石の上士、塩見恒四郎か?←『会津藩士人名録』より)が戸ノ口原より駆けつけ、急ぎ出兵を促した。そこで半隊を滝沢の東へ進め、続いて残りの半隊を進めて先の半隊に合流させた。戦友は皆、喜躍して滝沢峠を越え、舟石に達すれば、敵軍の大砲の音が耳に入った。依って舟石茶屋にて銃に弾丸を込め、携帯品を舟石茶屋に預け、とりわけ身軽になって舟石茶屋より駆け足で強清水を過ぎ、約一丁半(162メートル)を行き、左方の小高い山に登り、ここに穴を掘り、胸壁とした。
 時に官兵は四、五丁(432〜540メートル)の距離を隔て数千人いるのが認められた。これより戸ノ口原に踏み込むが、十五、六人の幕兵が喇叭(ラッパ)を吹き、敵軍に向かっていた。(我々は)側の山に登り、身を隠して敵状を窺った。既に胸壁を築き、陣をなし、そして(敵と)一戦を交え、我が軍に利があった。敵は(一旦)退き、更に大砲を牽いて来て戦う(進撃兵(援軍の敢死隊?)二、三十名が駆けつけ、激しく戦った。午後四時頃のことである。また、この山続きに於いて、十五、六人の幕兵が喇叭を吹き、敵軍に向かい、闘っていた)。時に我ら(が軍の)敢死隊の若干名が、和銃(国産の銃?)或いは鎗(やり)等を携えて進んで来た(敢死隊は、言い換えれば抜刀隊のこと)。

 白虎隊は、此処をその敢死隊に譲り、赤井谷地に転じて敵を挟み撃ちにしようとした。敵は本道の兵を追って城下に達している。我隊は側から敵を銃撃したが、効果はなかった。退軍の命令により、時に八月二十三日、大暴風雨(大あらし)の為、新堀の所に至り身を潜めた。そこで高さ五、六尺(約1.5〜1.8メートル)の土堤に攀(よ)じ登り、敵が来るのを立ち上がって狙い撃ちするのは、独り石田和助である。時に伊藤俊彦の姿が見えず、戦友大いに心配している処へ、俵の桟俵(さんだわら:米俵の両端にある、藁で編んだ丸くて平らな蓋)を被ってやって来たので、その豪胆さに驚かない者はなかった。

 二十三日の朝、赤井新田を引き揚げ、江戸街道を経て穴切坂を下り、若松を指して西へ向かう。その左に山路があった。その時、山内小隊長が後から来て、山路に入り、隊士に「お前達、何処へ行こうとしているのだ?」と訊いた。石山虎之助が進み出て、大声を発し、「沓掛に赴いて決戦するつもりです」と答えた。小隊長は、「敵は大軍にて我らは少勢、徒(いたずら)に犬死にするよりは我に従い、一旦敵を避けて再起を図ろう」と勧められた。虎之助は憤然として、「小隊長はよもや腰を抜かされたのですか?」と言った。小隊長もまた憤然として、「勝敗を見極めずして進んで死のうとするのは、子供の了見に過ぎぬ。我が指揮に従い、ついて来るべし」と言い捨て、山路に向かって去られた。全隊もその後に従おうと徐々に歩き始めたが、遂に小隊長を見失い、路が三方に分かれた処に出た。

 酒井峰治は中心の路に入り、紙製の草鞋を履き直し(紙製の草鞋は濡れ湿るので、大変苦慮した)、戦友が来るのを待った。しかし、戦友は何れも他の路に入ったと見え、誰とも会わなかった。左の路に入った者、右の路を行った者がいたようで、余(わたし)は左でも右でもなく中の路に入り、隊の続いて来るのを待ち、且つ紙製草鞋の歩き難さから徐々に沢を下っている時、馬の嘶きを聴いた。もし敵軍に遭遇し囚われるのは恥であるから、(もし敵であれば)ただ自殺するのみと決心して近づいて見れば、意外なことに(軍馬でなく)農耕馬であった。傍の仮小屋に、母子と思しき二人の農民がいた。余(わたし)はこれを見て、憐恤(れんじゅつ:哀れみをもって物を与えてくれること)を乞い、「戦い利あらず、余(わたし)は仲間ともはぐれて道に迷い、此処に至ってしまった。願わくば、我を案内して、本道への帰路を教えてもらえないだろうか」と、金一両二分(一両=四分。幕末の貨幣価値はかなり下降しており、一般的な米価による換算で、江戸中期には一両=約60000円だったのが、文久期には15000円、元治9500円、慶応元年6000円、慶応四年では一両=2600円くらいにまで下がっていたそうです。←M氏よりご教授いただきました)を与えたが、聞いてはもらえない。よって、更に一両二分を出すと、その母も傍観に忍びず、(連れていた)子供に道案内をするよう言った。よってその子の案内にて、猫山を経て滝沢の不動滝の上方に至り、子供と別れた。

 余(わたし)は独り歩いて滝沢村に向かう途中、又次郎の父某に逢い(又次郎は滝沢村の百姓である)、若松に帰りたい意向を述べた。その人が言うには、「敵が既に路(白河街道のことか?)を遮り、厳重に警備しているので、通行は到底無理でしょう」とのことだった。(仕方がないので)大藪の道を潜り、それより白禿山に至り、牛ヶ墓村の百姓庄三を訪ねたが、不在であった(御城が落ちたか否かを問う為に百姓庄三を訪ねたが不在)。更に他の人に問うたが、答えてくれる者はない。蓋し(けだし:推測するに)(わたし)を見て急に身を隠すようだった。(武装している峰治を見て、新政府軍に問い質されるのを怖れ、係わりを避けたかったと思われる)

 よって、網張場(あみはりば:鳥を捕らえる為に網を仕掛けた場所)の松蔭にて自殺しようと決心し、其処に至るやまず小刀を抜き、合財袋を解き、今やここに自殺せんとするところへ、庄三と齋藤佐一郎(旧知の会津藩士?)の妻が馳せ来たり、「自刃を急いではなりません」と言って、余(わたし)の大小刀を隠し、月代を切り落して髷を藁にて結い換え、農民の姿に変装させ、難を遁(のが)れられるようにした。農夫達と共に火の傍で暖をとっていると、我を呼ぶ者があり、振り返って見れば同隊の伊藤又八で(伊藤又八は白虎二番隊の同志で、甲賀町通り二之丁角に住んでいる。知行四百石を領する)、(自分と同様に)農装していた。それで共に山上に登り、城の陥るや否やをじっくりと見て確かめた。(←峰治と又八は、この時点で城が未だ落ちてはいない事を確認できたのでしょう)

 日暮れ、松茸山に入って(伊藤又八と)共にその小屋にて休憩している時、余(わたし)の傍を通るものがあった。よく見れば、それは余(わたし)が予(かね)てよりいつも連れ歩いていた愛犬「クマ」であった(以前より鳥を捕まえに行く時等、いつも連れていた愛犬に会った)。そこで声を上げてその名を呼ぶと、停まって余(わたし)の顔を仰ぎ見るや、走り寄って来て飛び付き、歓喜の様子である。余(わたし)もまた、(此処に至るまでのクマの辛かったであろう日々を慮って)言葉を失い、涙してしまった。可愛い愛犬よ、よくぞここまで来てくれたな、とその頭を撫でてやった(我が家で飼っている犬が余を訪ねて来たことが、嬉しくてたまらなかった)。そして、腰に帯びていた握り飯を与え、又八と共にその小屋で眠った。
 夢か幻かのうちに犬の呼ぶ声がして、余(わたし)はこれを叱ったが、(犬の声は)止まない(愛犬は一吠えして直ぐに(食べ)尽くしてしまっていたので、更に握り飯一個を与えると、暫く口に入れたまま噛まずにいた(周囲をうろうろして楽しんでいるようである。蓋し(けだし:おそらく、想像するに)平時余暇あれば彼(クマ)を伴い、禽鳥の捕獲に来ていたので、道を憶えていたのか、城下の人家は兵火に罹り(戦火にやられて)、食べ物を求めて此処へやって来たのだろう)。

 しばらくして人が来て呼ぶに、「臥し居る者は誰か?」と言った。「余(わたし)は行人町の酒井です」と答えると、「あぁ、酒井様ですか。僕は庄三の兄弟です。貴方は何故、こちらにいらっしゃったのですか?」と訊くので、(此処に至るまでの)真実を話した。その人が言うには、「白川(河?)口より退いて来た人々七百人ほどがおられるので、貴方もその方々の列に入り、お城に入られるのがよいでしょう」とのことで、小屋を出て山を下りる時に(又八と共に山を下りる)、近づいて見れば籾山八郎に会った(籾山は与力にして敢死隊の人。年の頃、三十二、三に見える)。「余は大龍寺の住職となる(である?)ので、共に寺へ来ればご馳走しよう」と言うので、共に行ったが、食べる物は何もなかった。寺を出て、水尾村を経て、栗の実を食べつつ野郎ヶ前に至った。遂に東山(会津の温泉地。東山温泉)に入り、人足の姿になって労を取らんとした時、火災が起こり、東山は全滅に期した(始終、(自分は)愛犬を連れていた)。そこで、火災の救援を大いに行った。

 狐湯の胡麻餅「おとめ」(胡麻餅とは狐湯の名物か? もしくは茶店等の屋号? 「おとめ」は人の名前、または胡麻餅を売っている店の看板娘かも。あだな、愛称であることも考えられます。括弧付きなのは、何か特別な存在なのでそうしたのかもしれません)に出会い、伊藤又八と共に愛犬を連れて青木山続きの山に登り、城の安否を窺うが、甚だ深い霧にて見えない。食べる物もなく、大いに困った。引き返してまた胡麻餅「おとめ」に会い、「おとめ」が「日向様がこの大藪の中に隠れておられるので、会って(様子を)聞いてみられては」と言うので、直ぐに権六(士中一番隊の日向権六と思われる)の母に会ったところ(また日向の隠居にも会見した)、権六の母君が余(わたし)に権六の居所を尋ねられたが、「余(わたし)は別隊なので、一番白虎隊の居る処は一切判りません」と答えた。母君はまた、「かの大藪の中に私の隠居がおりますので、お行きなされ」と言ってくれたので伺い、何か食べるものがないかと乞うと、飯はなかったが、(出してくれた)鮒汁をすすると、何とも言えず美味であった。伊藤は、「うちの家族は北方漆村の善内の家に皆が集まる約束になっているので、自分は城には入らない」と言い、(彼とはそこで)別れた。

 既に大平口を引き揚げてきた兵士が東山に滞在中、原田主馬隊(朱雀士中三番隊)に会った。二十五日の暁に院内橋を経て小田山下より天神橋を渡り、道を別にして三の丸の赤津口より笹を振り、大声を発して城に入り、初めて命拾いした心地がした。しかしながら、余(わたし)は農夫に変装し人足となって入った為、銃を持っていない。庄田又助氏に頼んで隊に入れてもらい、一発元込め銃を渡された。これより本丸へ弾薬を取りに行く。図らずも、同隊(原田隊)の永峰勇之進氏に会い、(彼が)農夫の姿を改め、木綿のズボンを穿いているのを見て、余(わたし)もまた農夫の姿を改めて木綿のズボンに穿き替え、「同隊は如何に?」と永峰氏に問うと、「同隊は西出丸の金吹座に居る」との答えだった。永峰氏と共にそちらへ赴くと、隊長、半隊長、小隊長、その他四、五人居られるのを見た。時は二十五日で、本丸に兵糧を受け取りに行く途中、余(わたし)の実兄に会い、家族の様子を聞き、且つ長脇差一本を貰った。

 それより毎日西出丸を守り、玄米を食し、毎夜味噌湯を飲んで暖を取る。そして九月上旬、同隊に入隊、二番隊と変更された時、水戸藩士並びに小笠原藩士等と共に南町御門を守る。九月十四日の未明、敵の砲撃が始まり、大砲の音が夜間絶えず響き、四方八方十六方一円にして攻撃が休まることはなかった。志賀与三郎が、小田山に陣取る敵の大砲の丸片が屋根を突き抜き、腿を撃たれるのを見た。南御門を守ろうとして、西出丸讃岐御門口を出れば、長岡清治(士中一番隊の永岡清治か?)が抜き身の槍を引提げ、早く詰めろと駆け寄った。そして共に南町口御門を守る。

 小田山の敵は壇を築き、大砲を放つことを止めない。我が兵の死傷者は甚だ多く、砲弾に中(あた)り介錯を求めて叫ぶ人があり、会津の一壮士が駆けつけ、これを見て美事にその首を斬り、城に入った。既に退却せよとの命があり、大町通りを横に出て五軒町より讃岐御門に出て、五、六百人が入城しようとするのを、海老名総督が大刀を揮い、退く者は斬らんと退く者を止める。

 時に砲弾が上濠に落ち、水泡を生じた。怪しんで問えば、燒丸であると言う。柴某という一士が五軒町を西に向かって進み、鎧を身に着け、長刀を揮って躍り入った。柴某ほか二、三の勇壮さは、言うまでもない。西出丸には鎧櫃を累(かさ)ね、これに土を盛って守った。

 九月二十二日、開城。同二十三日、猪苗代の岡部新助の家にて謹慎する。母は雀林村にて病死した。父も同所にあって病臥しているとの報せがあり、日向隊長にその旨を告げ、許可を得て、(雀林村に)行って看病した。その後、東京竹橋御門外御築屋にて謹慎する。時に年、十六才であった。



原文 : 白虎隊記念館『生存白虎酒井峰治銅像の由来』に全文掲載



戻る