幕末会津藩・基本事項

 

幕末期の会津藩についての基本事項を紹介しています。

領地

奥州陸奥国・会津
居城地は
会津若松。若松城は、別名「鶴ヶ城」とも呼ばれる。

石高

23万石(表高。南山御蔵入領5万石を加えれば、実質28万石)
幕末時点で、上から19番目くらいの石高で、東北では仙台藩に次いで2番目。

藩祖

保科正之(ほしな まさゆき)。
2代将軍・徳川秀忠の第4子(母は元北条家の家臣・神尾伊予栄加の娘、志津)で、3代将軍・徳川家光の異母弟にあたる。

幕末期の藩主 藩主 治世 生没と出自

第8代
松平容敬

(かたたか)

文政5(1822)年4月〜嘉永5(1852)年2月

文化3年4月28日(1806年6月14日)〜嘉永5年2月10日(1852年2月29日)
6代容住の第3子(実は美濃高須9代藩主・松平義和の庶子で、容住の養子)。

第9代
松平容保

(かたもり)

嘉永5(1852)年閏2月〜慶応4(1868)年2月

天保6年12月29日(1836年2月15日)〜明治26(1893)年12月5日
美濃高須10代藩主・松平義建の第6子で、容敬の養子。桑名4代藩主・松平定敬は実弟。

第10代
松平喜徳

(ひさのり)
*1

慶応4(1868)2月〜明治1(1868)9月

安政2年10月22日(1855年12月1日)〜明治24(1891)年6月3日
水戸9代藩主・徳川斉昭の第19子で、容保の養子。15代将軍・徳川慶喜の弟にあたる。明治6(1873)年8月22日、実家に復帰。

会津松平家の家格

親藩。三代藩主・正容(まさかた)の時代に幕府より葵の紋、松平姓を賜り、正式に家門大名となる。(家門大名 : 徳川将軍家の一族で御三家・御三卿以外の大名)
御家門の筆頭として、江戸城内の黒書院溜之間詰(会津松平家、高松松平家、彦根井伊家の三家が常詰)
藩主の官位は
従四位下侍従または正四位下左近衛中将(同格は彦根井伊家で、御三家・御三卿、加賀前田家に次ぐ官位)。官名は肥後守(ひごのかみ)

人口

総人口 : 享保3(1718)年の時点で16万9000人(『會津松平家譜』)
藩士の人口 : 文化3(1806)年頃で
約2万3000人(『近世会津史の研究・上巻』)

幕末期の藩士人口 : 士中(上士)のうち知行取
613人(1000石以上 : 19人、800石以上 : 8人、700石以上 : 4人、600石以上 : 3人、500石以上 : 22人、400石以上 : 35人、300石以上 : 68人、200石以上 : 91人、150石以上 : 106人、100石以上 : 236人、30石以上 : 21人)ほか、医師・与力等のうち知行取57人(『要略 会津藩諸士系譜』)
寄合・足軽(中士・下士)の人口は不明。ご存知の方がおられましたら、ご教示くださいm(_ _)m。

藩校

日新館(上士の子弟が対象)。詳しくはこちら
江戸詰、京都詰の藩士の為に、江戸日新館、京都日新館を創設。

幕末期の藩邸
(江戸・京都)

【江戸】上屋敷 : 和田倉門内、9150坪。安政2(1755)年10月2日の江戸大地震で建物の一部が倒壊したが、普請している。中屋敷 : 芝の新橋近くに拝領、1万5129坪。現在の東京都港区芝汐留、浜離宮庭園の隣とされる。下屋敷 : 江戸城の西、三田の高台。3万3980坪。現在の東京都港区芝三田松坂町、豊岡町。
【京都】鞍馬口。京都守護職屋敷 : 黒谷・金戒光明寺、京都御所の西(現在の京都府庁とその近辺)。

軍制 長沼流から洋式へ軍制改革。


*1 喜徳は「のぶのり」又は「よしのり」と読まれることもありますが、会津藩士・関場忠武著『田中玄清事蹟』に「ヒサノリ」とルビが振られていることが冨田国衛著『会津戊辰戦争 戸ノ口原の戦い』に写真付きで紹介されているので、ここではその読み方に従いました。

参考文献 : 『會津松平家譜』、『要略 会津藩諸士系譜』、『近世会津史の研究・上巻』、『シリーズ藩物語 会津藩』




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