会津藩校 日新館について


歴 史

日新館の前身は、寛文四年(1664年)五月、若松桂林寺町の北端赤岡分に住んでいた九州肥前国出身の岡田如黙(おかだじょもく)が自宅に設けた学問所、「稽古堂」であるといえる。如黙は宗教者で儒学に達しており、此処で開かれた講義の評判は頗る良く、武士階級に限らず農工商の庶民でも学ぶことが可能であった。
会津の学者、横田俊益が稽古堂で講義を行った折は、当時の家老田中正玄をはじめ城勤めの役人はもとより、士庶を問わず多くの人が講義を聞きに来て、大盛況であったという。これを聞いた藩祖保科正之は大変喜び、学問を奨励し、如黙を堂主と定めて地租を免じ、修繕料を与えたりした。

それより十年後の延宝二年六月、郭内本一之丁甲賀町通り東北の角に学問所が建てられ、「講所」と称した。元禄二年には甲賀町口に「町講所」が建てられ、商業に携わる者の入学を許したので、先の「講所」は士分が通う「郭内講所」として区別。これが後の「日新館」となるもので、天明八年には増築、また同じ郭内に「西講所」を建て、それまでの郭内講所を「東講所」とした。

寛政十一年(1799年)四月七日、校名を「日新館」と命名。四月十三日には、新館改造に着手し、多くの人手を掛けて、享和三年(1803年)十月九日にようやく完成。

所在地・構内

郭内米代二之丁の北端に在り、東は大町通り、西は桂林寺通りに面する。北は米代一之丁。

東西 : 百二十五間(約228メートル)、南北 : 六十四間(約116メートル)
面積 : 八千坪(約26.4ku)

「日新館」には、孔子を祀る大成殿、素読所(小学。東塾に三礼・毛詩塾、西塾に尚書・二経塾)、講釈所(大学)、礼式方(武士としての礼儀作法を講義する所)、武講(軍事奉行が取り仕切る軍事研究所。戦略・戦術を学ぶ所)、書学寮、和学・神道方、医学寮、天文方等の各校舎・寮のほか、天文台(当時日本に二つしかなかったうちの一つ)、御文庫(図書館)、弓馬刀槍の各道場、師範宅、日本最古のプールといわれる水練水馬池があった。

校名の由来

四書の一つ「大学」の中の「湯の盤銘」と言われる故事に由来。昔、殷の湯王(とうおう)が、朝夕使用する洗面器に「苟日新日日新又日新(原文):苟(まこと)に、日に新たに、日に日に新たに、また日に新たにせん」と彫って自らを戒めたという逸話で、日々新たに進歩、成長したいという意味がある。

入学条件

士分(会津藩の武士階級身分制度による花色紐以上の階級)の子弟。入学年齢は、時代によって変化(十〜十二歳)しているが、幕末期では弘化二年(1845年)に十歳とされている。但し遠方の者や、病気等の理由により、十一歳での入学も認められた。
入学日は必ず朔日(一日)で、その日は麻上下(あさかみしも)の礼服を着て什長に連れられて講釈所で儒者に拝謁する。一定の儀式(入学式)を終えると、什長が新入生を連れて学校奉行・学校奉行添役・儒者・素読所勤・素読所手伝勤(所謂先生方、学校職員)に挨拶し、同じ組になる生徒の家に挨拶廻りをする。生徒は新入生の家に行き、答礼するのが例となっていた。

独礼以下(茶紐以下の中士。上記身分制度のリンク参照)の子弟は、南北学館(南北素読所)に入学可。襟制(下級武士。上記身分制度のリンク参照)の子弟は特に優秀な者のみ南北素読所に入学を許可されたが、それ以外の者は寺子屋で学んだ。

学籍

生徒は、その居住地域によって、尚書・三礼・二経・毛詩の四塾に分かれ、さらに一番組・二番組に細分された。毛詩塾は生徒の数が多かったので、一・二番組をさらに二つ(甲・乙)に分けていた。

(参考1)日新館の学籍(図で表したもの。別ウィンドウで開きます)

(参考2)
「士分の組を邊(辺)と云い徒の町、小田垣、二の丁上、五の丁、四の丁下、本丁、米代、花畑、新町、水主町、の十組に分ち、恰も春秋列国の如く他邊を外国視して競争せり。若松は道路に小石多かりし為か石合戦に長じ、本丁と米代は諏訪通にて屡々石合戦をなしたり。昼食最中友人の門内に入り高声にて呼ぶ者あれば唯(アー)と答え脇差を帯に挿み食事も碌々済まさずして急ぎ出て行く(其頃二刀を帯るも近隣に出るには脇差一本を差し差し支え無けれども、脇差は平素昼夜とも身体より三尺遠く離す可からざる事に成り居れり)、祖母に何れに行くやと問えば米代邊と喧嘩する為に行くなりと答う。祖母は之を制止せずして然らば魔除けの為梅干一ツ喰べて行く可し負ては成らぬと大に鼓舞したり、其頃の武士気質なり。」
河原勝治 『思出の記』(『會津會雑誌』第28号に収録)より。
河原勝治の学籍は二経塾一番組で、本丁辺の遊び場は御厩と御諏訪(諏訪神社)であったとのこと。上記のように、異なる塾生同士は親戚でもない限り親しくなる機会は殆どなく、度々喧嘩をしていたらしい。

日新館の一日

朝七時頃より当番の誘番(さそいばん)が町内の者を呼び集め、全員揃えば什長(十歳以上の「学びの什」)が引率して登校。
所属する塾に着くと、什長が最初に入り、他の者は年齢順に入る。まず刀掛けのところに行き、什長が自分の刀を掛け、他の者は順次自分の刀を送り什長が皆の刀を掛け終わると、中央に座り脇差を外して、皆に向かい「おはよう」と挨拶してお辞儀する。それから皆、定席に着く。
八時になると、先生方が詰所から出て来る。首席の什長が先生を迎え、組の生徒の出欠を記入する。八時前に出た者には「ソ」(速)、八時以後に来た者には「チ」(遅)の字を付けた。
八時から十時まで素読。十時になると、十二歳以上の生徒は書学寮に行き、書学を習う。それ以外の生徒は、素読を続けた。但し、極暑中は「四ツ帰り」と称して午前十時に終わる。四ツとは昔の時間の数え方で、今の午前十時のこと。
十二時から十三時までは昼食・休憩時間。生徒は弁当を持参したが、文化三年(1806年)より十五歳以上の生徒に日本初といわれる給食(藩費で負担。基本的に一汁一菜で、白米二合五勺、漬茄子一個。味噌汁の具は、一丁を五人で分けた豆腐に青菜を用いた。一ヶ月に二〜三度、乾し魚か塩鮭がつく)が実施された。昼食時のお茶は、生徒がお金を出し合って茶とやかんを購入、小使に預けておいた。
十三時からは、十四歳以上は武学寮に出て武術を習う。これ以下の生徒は素読を続けるが、十五時にはすべて終了し、朝と同じく町内毎に集団下校した。
下校後は、「学びの什」によって行動。

休日

毎月 : 一日・三日・十五日・十八日・二十三日・二十七日・二十九日
(河原勝治によると、上記中、二十七日と二十九日はなく、二十八日)
年間に五節句、諏訪神社祭礼、授光祭(豊年祭)等で三十七日。
年末・年始 : 三十日。十二月十五日に会納式、一月十五日に会始式があり、麻上下で登校して聖堂での式に出る。学校奉行列席の下、儒者が講義をする。
その他、先君の命日など。
以上、年間で百六十三日の休日があった。

素読所(小学)

学問の基本は、朱子学。
階級は第四等から第一等まであり、これは生徒の家格によって何れの階級までを必須とするかを決めたもので、それぞれ修了に必要な書物は下記の通り。

第四等(基本教育につき、家格に関係なく必須)
孝経、四書(大学、論語、孟子、中庸)、小学、五経(詩経、書経、禮記、易経、春秋)、童子訓

第三等(三百石未満の長男、三百石以上の二、三男の定級)
四書(朱註を併読)、小学(本註を併読)、春秋左氏傳

第二等(三百石以上五百石未満の長男の定級)
四書(朱註を併読)、小学(本註を併読)、禮記集註、蒙求、十八史略

第一等(五百石以上の長男の定級)
四書(朱註を併読)、近思録、二程治教録、伊洛三子傳心録、玉山講義附録、詩経集註、書経集註、禮記集註、周易本義、春秋胡氏傳、春秋左氏傳、國語、史記、前漢書、後漢書


それぞれ試験を経て、合格すれば進級できる。
第四等→第三等 : 考試なし。童子訓以外の書物全ての素読を終えれば修了。
第三等→第二等 : 春秋二回行われる考試に合格すれば進級。
第二等→第一等 : 春秋二回行われる考試に合格すれば進級。
第一等→講釈所 : 経書の「禮記」から一ヶ所、「近思録」または「ニ程治教録」から一ヶ所、歴史書の「前後漢書」「史記」から一ヶ所、無
本(返り点等の送り点が無い本)で二度読解(内試及び本試。内試は学校奉行・目付が試験を行い、本試は儒者が行う)に合格すれば、講釈所(大学)への入学を許される。←十六歳で及第した者には、賞として「詩経集註」、「周易本義」各一部を下賜されるが、この賞を受ける者は、年に僅か二、三人であったという。他の階級でも所謂「飛び級」があり、成績優秀な者には賞として書物が与えられた。

「童子訓」は会津藩独自のもので、四書五経の教えを解り易く具体的な例をあげて解説した書物。別名「会津論語」。

「二程治教録(にていちきょうろく)」、「伊洛三子(いらくさんし)傳心録」、「玉山ぎょくざん)講義附録」は、藩祖・保科正之が尊皇論者の学者・山崎闇斎の協力を得て編纂した五部書(残りの二つは「会津風土記」、「会津神社志」)のうちの三書で、朱子学の書として学術的に高い評価を受け、扱いも丁重に風呂敷に包むか帙上に乗せるなどして、決して直に座上に置かれることはなかったといわれる。

上記の他、十歳〜十五歳までは毎月六回礼法を、十二歳からは書学を、十五歳からは弓・馬・槍・剣術を学ぶ。砲術はまだ学ぶ者が少なかったが、飯沼貞吉は十二歳で夢想流師範・横田勝之助に入門している。基本的に武術は十五歳から必須となったが、『會津日新館志』によると、十四歳以下でも本人が希望すれば入門可能であった。
(参考:会津藩ではゲベール銃が安政の初年に取り入れられていたものの、和銃(所謂火縄銃)を完全に廃止したのは文久二年とのこと。故に白虎隊の少年達が砲術を学んだ頃には、和銃ではなく雷管の鉄砲が使用されていたようである)

尚、素読所卒業の基準としては、上記の等級を修得し、武術においても何れか一種目でも「許」(免許)の位を取得することが必要であった。
(参考:「會津藩教育考」に、「長次男とも若し学問書学みな定格に至らず弓馬槍刀火術の内一芸の許を得ざるものは、素読所も勝手次第たるを得ず」とある。「長男、次男以下とも身分によって定められた級に至らず、弓馬槍刀火術のうち一種目も「許」を得られない者は、素読所を修了できない」という意味)

三百石以上の長男は三十五歳、花色紐以上の次男以下は二十一歳まで素読所出席が認められている。十八〜十九歳で卒業するのが一般的であるが、飯盛山で自刃した二十名のうち、十六歳までに卒業した者が『補修 會津白虎隊十九士傳』によると四人(井深茂太郎、間瀬源七郎、林八十治、飯沼貞吉)居た。

その他、必須ではない専門科目として、神道・皇学(令義書、日本書紀など)・医学・算術・天文学・蘭学・雅楽・和学(詠歌)等があった。

素読所の教育は、優秀な者に賞を与える反面、学業不振、素行不良な者には罰が与えられた。不都合者が居ると、「学びの什」における什長が尋問し、素読所勤に報告。素読所勤は、儒者を経て学校奉行の意向を伺い、次のような罰を与えた。

1)詰切読(つめきりよみ) : 素読所の別室に朝から午後四時まで閉じ込めて、什長が付き添って読書させる。
2)禁足 : 外出禁止。教師が自宅に出向いて経書を読ませる。
3)塾替 : 他の塾へ移動させる。自分の朋友が居ない他塾での勉学は、生徒にとって辛いものだったという。(←会津藩では、什や日新館での学籍が違うと、親戚等でない限り仲良くなる機会は殆どなかった為)
4)降級 : 落第。学問ができても徳が不足であれば、その地位に居るべきではないとされた。
5)閉宅 : 日新館内の一室(牢屋)に入れられ、教師が巡回して勉強させた。父母の訓戒に服さない放埓な者に与えられた罰。

講釈所(大学)

正式名称は「止善堂」。
素読所を卒業した五百石以上の長男と、成績・人物ともに優秀な者だけが入学を許される。また、南北学館にて素読を修了した者で、規定の試験に合格すれば、講釈所への入学を許された。
毎月三回行われる講釈会(儒者の講義を受ける)、輪講会(儒者の面前にて諸生が籤を引き、当たった二人が輪講を行い、皆で討論する)のほか、自主研究も奨励された。

下等
経書、歴史
無点本にて一葉(2ページ)ずつ読ませ、一所ずつ講義させ、合格(二点全解)すれば別の日に与えられた題をもとに詩文を試される。
詩:七言絶句一首  
文:二百字内外の復文一則
合格すれば、中等に進む。

中等
経書、歴史、雑書
経書のうち一葉、歴史・雑書のうち一葉を読ませ、一所ずつ講義させ、合格(二點全解)すれば別の日に与えられた題をもとに詩文を試される。
詩:七言律五言排律の内一首。(本人の随意)
文:題跋紀事序文の内一篇。
合格すれば、上等に進む。

上等
経書、歴史他を討論形式で学ぶ。自主研究が主体。


中等以上の者にて、特に成績優秀で品行方正な者は、江戸に遊学を許された。


参考文献 : 小川渉『會津藩教育考』、吉村寛泰『會津日新館志』、早乙女貢『会津藩校日新館と白虎隊』、會津藩校日新館のパンフレット、『會津城下屋敷之図』(古地図)、山田岩男『会津藩校日新館の教育』(『会津史談』第67号に収録)、河原勝治『思出の記』(『會津會雑誌』第28号に収録)


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