奪 取
「 ―― それ、オレの仕事じゃねえだろうが。なんで回すんだよ。長距離のバイト、増えたんだろ?」
電話の向こうの社長の言葉はやや困惑気味な苦笑をたたえていた。
『仕方ねえだろ。やっこさん、三日間休暇とっちまったんだ』
「新入りのくせに調子くれてやがる。何様だよ」
『辞められちまうよりマシなんだよ ―― 』
バイトでは後輩の筈の鉄男は、入って数日で完全に社長と顧客の信頼を得てしまったらしい。溜息をついて電話を切る。踏み倒されそうな貸しは、これで二つに増えた。
放課後、教えられていた現場に向かった。その途中にも、最近感じる不吉な予感がピリピリ突き刺さる。あの時以来だった。族の追跡を振り切った三日後あたりから、洋平は仕事中、稀に視線を感じていた。
(こりゃ、嵌まったかな)
受取の現場では思ったより長時間を待たされた。日は落ちかけていたがそれでもまだ時間には余裕がある。品物を受け取り、洋平は腰につけた専用ケースにしまい込んだ。渡しの場所は都内にある。高速を使いさえすればそう遠くはないから、初めての仕事でもまるっきり気負いはなかった。
走り始めてしばらく。追走してくるマシンにはすぐに気づいた。まもなく一時停止を無視した二台目のマシンが飛び出してくる。三台目は信号さえ無視した。四台目は一方通行入口からのご登場だった。
(どいつもこいつも恥ずかしい野郎どもだ)
もうすぐ高架橋。その先はあの夜鉄男のゼファーを追い掛けた海岸沿いの一本道だ。周囲に邪魔な四輪がいなくなれば仕掛けてくる。だからその寸前に洋平から仕掛けた。
―― キュリリリィィィーーーー……
急停止。後輪をロックして車体を倒しぎみに反転する。後続を走っていた一台がひっかかって横転した。体勢を立て直して、反対車線まで一気に横切って今来た道を逆走する。そのとき ――
(やべ! まだいやがっ……!)
五台目のマシン。
激突を避けるのが精一杯だった。バランスを崩して横転しかける。それでも最後の足掻きを洋平の肉体は覚えていた。昔事故ったことがある。その時よりいくぶんマシな倒れ方だと洋平は思った。
利き手をついて起き上がる。しびれた手首は力が入らなかった。やはり完全無傷とはいかなかったらしい。
目を向けて、瞬間飛び込んできたのは地面を走る火花だった。マシンのスピードで振り下ろされた鉄パイプを転がって避けた。一瞬遅ければ、洋平は間違いなく殺されていた。
(マジかい)
威嚇するようにアクセルを吹かす。横転した一人をのぞいた三人も、洋平の回りを囲むように集まってくる。四台のマシンの不気味な不協和音。恐怖を煽る音色は洋平には大きなお世話だった。
(なめんじゃねえよ)
鉄パイプは一人。そいつがメインで、あとは檻のような乱走を始める。喧嘩には邪魔なメットを放り投げた洋平とCBを囲んで、乱走はやがて周回になった。打ち込まれる鉄パイプを避けて、洋平は乱走が周回に変わるその時を待っていた。
護身用BJを取り出して鉄パイプ男の鼻面をかすめる。それが合図だった。次の男のみぞおちに打ち込んでマシンから引きずり落とし、バランスを崩した後続車を蹴倒した。瞬時に振り向くと、マシンを諦めた鉄パイプ男は狂喜を浮かべて洋平のCBに向かって鉄パイプを振り上げていた。
間にあわなかった。だが二度目の攻撃は永久にさせなかった。
「ィリャァアアアァァァーーーー!」
振り回した獲物は鉄パイプ男の顔面にヒットしていた。ふらつく男に二度三度弧を描いて吸い込まれる。回りの男達は洋平の変貌に恐怖を覚えた。愛車CBに傷をつけられた洋平には今、回りの男達など少しも見えてはいなかった。
「……やべえ。殺すぞあいつ」
背後から洋平をはがい締めにするのはたいしたテクニックを必要としなかった。二人がかりで抑え込んで、一人が前に回って拳を打ち込む。洋平の抵抗力がなくなるまでいくつのパンチが打ち込まれたのか、誰も判らなかった。ようやく洋平の力が抜けたとき、襲った男達は勝利感よりも安堵感を強く感じていた。
「手間かけさせやがって……」
洋平の正気は半分だけだった。声は聞こえる。しかしまだ周囲は見えなかった。
「あいつのおかげでこっちはめちゃくちゃだ。限度ってものを知らねえ。……てめえの仲間、あいつはどこにいる」
―― 仲間? 誰のことだ?
「おらあ! てめえの仲間だよ! 黒のゼファーの野郎だ! あの野郎がこっちの仲間半殺しにしまくってんだよ! 答えろ! 奴のヤサァどこだ!」
呼吸をするのもつらかった。なのに、洋平は笑った。そうせずにはいられなかった。
ヤサはおろか、洋平は鉄男の名字すら知らないのだ。
「なに笑ってやがんだよ! まだ足りねえかコラァ!」
打ち込まれた拳に血の味。三つ目の貸しだ。返してもらえるあてはない。
その時だった。
「……ゼファーだ」
洋平に半殺しにされた鉄パイプ男の、目覚めて最初の言葉だった。男達は恐怖を孕んだ沈黙に覆われる。静まりきった周囲にやがて低く響いてくる低音。その一瞬の隙だけで洋平には十分だった。前に立つ男を両足で蹴倒し、それを皮切りに報復の嵐を吹かせる。
「クソ! 覚えてやがれ」
倒れた仲間と助け合いながら、男達は走り去っていった。見届けて、洋平は座り込んだ。ガードレールを背にして。
「……忘れるよ」
目を閉じる。少し、休憩が必要だった。都内までの道程は長い。それよりCBは無事なのか。確かめるまでにはあと五分は必要だった。
独特のエンジン音が近づいてくる。闇の中から、しだいに浮き上がる黒光りしたマシン。目を開けて、ライトの眩しさに再び目を細めた。ライトの動きはそこで止まった。一体化していた黒い生き物の一部分が分離して、逆光の中、CBの前に踞った。
「……ダメだな」
一言言って、洋平の方に近づいてくる。人型の黒い物体は、立ち止まって洋平を見下ろしただけだった。
「もう走れねえ、ってことか……?」
その洋平の言葉に、男は忘れられない含み笑いを漏らした。
「たいしてイカレちゃいねえ。ただ、オイル管に亀裂が入ってる。このまま乗ったら下手すりゃ爆発炎上だ」
少なくとも再起不能ではない訳だ。少しはほっとする。しかし、急場には間に合わない。
腰につけたケースに力強く差し出された手を、洋平は怒りを含んだ目で拒絶した。
「渡せ。時間がねえ」
「こいつはオレの仕事だ」
「CBはあの通りなんだぞ。その身体じゃゼファーは無理だ」
「やってみなけりゃ判らねえじゃんかよ」
ガードレールに腕を掛けて立ち上がる。利き腕の手首から痛みが駆け抜ける。アクセルがどの程度握れるか。命がけで走れば、都内までゼファー操ることくらいできる。
つける薬のない意地っ張りだと鉄男は思った。溜息をつく。昔、こういう男を知っていた。唯一ゼファーに跨ることを許した、光輝くスポーツマン。
「仕方ねえ。乗せてやる。ほんとは指定席なんだがな」
それしか方法はないと思った。洋平もその案で妥協する。
「ミッチーのか?」
「死んだ男のだ」
「たまんねーな。……こいつは?」
倒れて血を流す洋平のCB。守ってやれなかった。
「救急車呼んでやる。入院させりゃすぐ元気になるさ」
感傷は一瞬だった。一瞥のみで、ゼファーのうしろにノーヘルのまましがみつく。
夜のカーテンを爆音で突き破りながら、力なく回された腕の震えを鉄男は感じていた。
ねぐらにしているマンションの駐車スペースまで辿り着いて、鉄男はようやく洋平の体力の限界を知った。腰にしがみついたまま気絶している。器用に肩で担ぎ上げて、誰もいない管理室を素通りしてエレベーターに乗る。真夜中はとっくに回っていた。
部屋の鍵を開け、明かりをつけて洋平のブーツを脱がせた。洋平を乗せたまま自分も裸足になって部屋に上がる。大きめのダブルベッドに放り出すと、苦痛が訪れたのか僅かに呻きを漏らした。しかし目は覚まさない。鉄男はサイドボードの上にあったブランデーの瓶を取り上げると、直接口をつけて一口飲み下した。
三井に似ていると思った訳じゃなかった。三井よりもむしろ、自分に似ている。見果てることのないスピードの狂気に囚われている。マシンがいざなう、生と死のぎりぎりのゲームに。
スーツを脱がせて裸にした。もう少し時間をおけば、完全に斑点模様になる傷だらけの皮膚。
自分の方も脱いだ。全部脱いで、丸めて全自動洗濯機に突っ込む。スイッチを入れて、ついでのようにシャワーを浴びた。終えて部屋に戻っても、洋平は目覚めていなかった。
明かりを消して、洋平の隣に寝転がる。カーテンを閉める習慣がない男の部屋にはカーテンはなくて、月明かりと街の明かりが力なく差し込んでくる。鉄男は眠れる気がしなかった。CBとゼファーのセッション。耳をついて離れなかった。
二つの鼓動が響きあっている。
「あんたさ、あのヘッドのマブダチだった?」
少し前からなんとなく気づいていた。洋平が目を開けて、同じ天井の向こうを見上げていること。
目を覚まして、天井の向こうを見上げながら洋平は感じていた。隣にいる男が、洋平と同じ世界を見ていることを。
「二三度走ったな」
たったそれだけの関わりで、最期の狂い咲きを邪魔した奴らを全員半殺しにしていたのか。判るような気がした。それがこの男の最高で、この男にとってはそれがすべてなのだということ。
覆いかぶさる感じで重ねられた唇に、洋平は抗わなかった。煙草とアルコールの匂いがする。
「オレ今、性欲ねえかもよ」
「だったらマシンの音でも聞いてろ」
皮肉に歪んだ笑み。くわえ煙草のままもとに戻らなくなってしまったかのように、鉄男はいつもアンバランスな唇で笑う。
―― 今でもまだ、鉄男の背中でゼファーの振動に揺られている気がする。
腕を回したとき、スーツを伝って高揚する鼓動を聞いた気がした。始動させたエンジンの音を追い掛け、やがてぴったりと重なりあった。同じ鼓動を洋平も重ねた。そしてすべてが同じリズムを奏でたとき、カチッと、小さな音が始まりを予感させた。
耳の奥でエンジンの回転数が上がる。緩やかな滑り出し。人の心音のような規則的な振動が、足先から全身に伝わってくる。触れられた唇と指先が再現した。息づかいと鼓動。僅かな緊張。
徐々にスピードが増してゆく。爆音は小きざみな唸りに変わって全身の震えと重なりあう。共鳴。奇妙な甘酸っぱさを含んだ震えが、大腿からしだいに全身に伝わってくる。腰から胸、やがて腕に迫り上がってくる感触。指先まで辿り着いたとき、愛しさが込み上げてくる。マシンを遮二無二抱き締めたくなる。
「アァ……」
現実の小さな吐息がアンバランスな唇に吸い込まれる。鉄男の腕が、あの時マシンを抱き締めたかった洋平の代わりに洋平を抱き締めてくれる。鉄男はゼファーだ。気づいてしまえばごく当たり前な解答。それ以外のものであるはずがない。鉄男はいつでも、あのマシンと一体化していた。
マシンの音が聞こえる。ゼファーとCBの、異なる音のセッション。
両腿の間にぴったりフィットするゼファーの本体は欲望を形取っている。一体感が欲しくて心と身体を開放する。訪れた感触に違和感はなかった。
激しい振動は振幅をさらに増し痛みさえ伴う。身体の奥を突き上げてくる衝動が増幅され脳髄を痺れさせる。その快い痺れは全身に行き渡り限りない高揚感になって漂う。留めることができない。訳の判らない悲痛な叫びへの移行。
スピードに目が眩んでゆく。限りない振動の嵐と突き抜けていく放射状の風景。この先、真っ白い絶頂を迎えたくて洋平はいつも走り続けた。絶対に得られることのない、生と死の向う側の世界。
マシンと一体でなければ辿り着けないと思った ――
ベッドの縁で、鉄男は煙草を吹かしていた。もう片方の手にはブランデー。正確に交互に味わっている。
その一本が終わると、ようやく鉄男はベッドに戻ってきた。唇を寄せて、含んだそれを流し込む。煙草味のブランデー。それは鉄男の味なのかもしれないと、洋平は思った。
言葉がなくても判る。共通する何かが互いの中には存在する。
それを確かめてみたい気がした。
「マシンて、SEXに似てねえ?」
「イけねえSEXだな」
言葉は、なくても通じると思った。だが、言葉がこれほどすんなり通じる相手も、洋平は初めてだった。
「洋平、お前はイきてえんだろ?」
見たいと思う。マシンと一体化して垣間見る快感の先。
「だから走ってる。何が足りねえのか、スピードか、テクか、オレには判らねえ。……けど、イッちまったらたぶんそん時は……」
「ナラク、だろうな。マシンもてめえも」
その世界は、生を踏み越えた場所にある。放射状の風景の先、真っ白に輝く光に満たされた楽園。しかしその世界に辿り着いて帰って来た者はいない。おそらく、誰一人として。
だからこそ魅かれる。同じ気持ちを鉄男は持っている。それが、共鳴できるものの正体なのだと思った。
「お前のCBはいいマシンだ。手を入れてやれ。まだ走るぞ」
「バイト、しねえと」
「だな」
洋平は自分と同じものを見ている。見果てぬ夢。スピードが支配する狂気。それが何を意味するのか、鉄男には判らなかった。
この先互いのセッションが生み出すものなど見えないけれど今は ――
走る。ただそれだけ。
了
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