薊の檻 おまけ



 その時の洋平の笑顔が、流川を凍りつかせていた。
 移動教室は、一番自然に洋平を見られる時だった。実験室まで行くためには必ず洋平の教室の前を通らなければならなかったから。だがたとえ不自然であっても、遠まわりしてでも、流川は足を運ぶことを一度も厭わなかった。時には見つからないようにバイトの帰り道を張り込むこともあった。
 アザミに傷ついた、洋平の腕。
 抱きしめても、洋平の暖かさを感じることはなかった。
 冷静に、少しも心を乱すことなく、流川を拒み続けた身体。言葉の一つ一つが鋭い棘となって流川の心臓に刺さり続けた。希望を見い出すことはできなかった。ほんの少しでも、たった一言でも、希望に変わる言葉があったのなら ――
 それだけが希望だったのだ。
 笑顔を見せなくなった理由があるというただそれだけが。
  ―― 一度でもお前が本気に笑ったら、そしたらもう見ねえ
 心の底から引き絞るかのような言葉。
  ―― 諦める
 どうしてあんなことが言えたのだろう。笑顔が見たかった。笑ってくれるのならば、ただ幸せでいてくれるのならば、諦められる気がした。その笑顔がたとえ自分に向けられたものでないのだとしても。
 洋平が幸せならそれでいい。
 その想いがどれほど傲慢で、利己的であったのか。
 教室の窓から洋平を盗み見た流川の思考も動きも凍りついたまま動くことはなかった。仲間達と自然に笑いあう洋平の姿は、流川の自我をすべて日の下に曝け出した。誰を見ても、どこにいてもただ笑っていれば満足である。そんな想いが偽りであることに初めて気づいたのだ。
 一番見たくなかったのは誰かを見て笑う洋平。
 自分でないものに笑いかける洋平を知るのは激しい痛み以外のなにものでもなかった。
 諦められる訳がないのだ。どんなに洋平に冷たく突き放されようと、ひどい言葉を投げかけられようと、諦められる訳がないのだ。心の底にどろどろとうごめく欲望を切り捨てられることなど、流川にできるはずはないのだ。
 だけど諦めなければならない。そう、洋平に約束したのだ。諦められなくても、どうしても諦められなくても、諦めたふりをする。そうしていればいつか本当に忘れられるだろうか。この苦しみを昇華することができるのだろうか。
 それが自分にできるはずがないことも、心の奥底で感じている。



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