薊の檻
リョータとの関係が始まってからいったいどれくらいになるのか、もう既に洋平には判らなくなっていた。
一番欲しいものは知っていた。そして、それを洋平が手に入れることは未来永劫出来ないのだということも。洋平にとって、一番でないのなら二番も百番もたいした違いはなかった。だから洋平は考えなかった。自分にとってリョータがいったい何番目であるのか。
リョータにとって自分が何番目であるかということも意味がなかった。気持ちのない好きという感情の伴わないSEXにはそれが似合いだ。性欲の捌け口という目でのみ相手を見つづけることが、いくぶん洋平の救いに思えたから。
「声、上げんじゃねえぞ」
互いが一つになる瞬間に洋平はなかなか慣れることができなかった。自らの身体に異物が侵入してくることへの生理的嫌悪感。そして切り裂かれ突き抜ける痛み。洋平の気持ちがその身体を受け入れることを望み、あるいは身体を解すことに少し時間をかけたならこれほどの痛みに苛まれることはないのかも知れない。しかしリョータは必要以上に手間をかけようとはしなかった。自らを濡らすことすら最小限にとどめるほど。
「……アウッ!」
「声上げるなって言ってんだろ!」
容赦のない平手打ちに洋平の意識が一瞬飛びそうになる。かろうじて踏み止まる洋平にリョータは更なる攻撃を加え始めていた。リョータの腰の動きに合わせて叫びが洩れそうになる。洋平は自らの腕を噛み締めることでそれに耐え続けていた。
やがてほんの少しだけ馴染んで楽になってきたと思ったとき、リョータは動きを止めて自らを抜いた。そして身体を仰向けに返して洋平の首を強引に引く。
「今度はお前の番だ。しっかり舐めな。お前の味がするぜ」
髪を捕まれ、引き倒される。リョータの部分は僅かに血の味がした。一度達してしまえばいつもリョータはそれ以上のことはしなかった。それだけをまるで一本の希望の綱のように感じて、洋平はリョータを舐め続けていった。
リョータの息が荒くなって、洋平は上から頭を抑えつけられる。喉に突き刺さるような部分に瞬間的に吐き気を催して回避行動を取ろうとしたとき、奥に雪崩れ込んだ液体が洋平の呼吸機能を完全に封鎖していた。もがき苦しむ洋平をリョータはすぐに解放しようとはしなかった。それでもようやく自由になったとき、洋平は咳をしながら自分の呼吸が正常に戻るまで一分を待たなければならなかった。
「帰っていいぜ。欲しくなったらまた教室に顔出すからよ」
顔を上げたとき、リョータは部屋からいなくなっていた。
どうしてリョータとSEXするのか、洋平にはもう既に判らなくなっていた。
黒猫の姿に背を向け始めて、どれくらいになるのか。
判ることと判らないことは洋平の中に同じ重さで混在していた。判ることの一つは、自分が今でも黒猫を求めているのだということ。まっすぐな、自分を見つめる視線。たった一度しか感じたことのない黒猫の腕。通りすがりに今でも視線を感じることがある。もう一つ判っていることは、黒猫の方も、自分を忘れてはいないのだということ。
判らないことを洋平はあえて見ようとはしなかった。リョータの身体が自分を求めることの意味。自分の身体が、リョータを求める理由。何かが狂っているのかも知れない。その歪みを見つめることは自分の狂気を知るようで怖かった。
昼休み、親友のもとをリョータが訪れる。それが合図だった。狂気の入口の。
「宮城さん、最近お前んとこよく来るな」
無責任軍団の言葉に、洋平は身体をこわばらせた。しかしその言葉は話を終えて戻ってきた親友に向けられたものだった。
「そーいやそーだな。別に用があるわけじゃねーんだぜ。部活ん時に話せることばっか」
「なーんか別のたくらみがあったりしてな」
「気をつけろよ、花道」
「……何言ってんだ? おめーら」
判ること−このことは誰にも話してはいけない。
黒猫を避ける。親友や軍団に対して、普段通りに接する。上手に嘘をつく。バイトを増やしてくたくたになる。できるだけ考えないように。できるだけ、考えないように。
それが、今の洋平にはベストだった。
「色はさ、やっぱ赤が最高じゃねえ? お前も好きだろ? 花道のおつむの色でさ」
リョータの質問は、質問の形を取ってはいるがそうではない。答える者の存在しない質問。それは断定。
「初めてん時、オレ、最高の赤を見つけたんだ。ほれ、赤にもいろいろあるじゃねえ。信号機の赤とか、朱肉の赤とか、もっとピンクに近い赤とか。ポストの赤ってのもあるな。……オレが見つけた赤は、簡単に手に入る赤じゃねえぜ。
―― 洋平、お前の赤だ」
取り出された一本のナイフに、洋平の身体は僅かに震えた。リョータと初めて身体を交えた夜。頬の傷は既になくなっている。
「宮城サン……まさか顔に……」
リョータの赤い舌がナイフを舐め、その唇でニヤリと笑った。
「リクエストは尊重してやるよ。ま、顔は目立つしお前も言い訳に困るだろうからな。手足も不便だし……このあたりからいってみるか」
ひんやりとしたナイフの感触が、洋平の脇腹に触れる。躊躇うことなくリョータはナイフを引いていた。瞬間的に洋平は痛みを感じて仰け反る。しかし、予感していたほどの痛みは訪れなかった。鈍く継続する痛み。
「あんまし血い出ねえな。……と思ったら出てきた。見ろよ。思った通り、一番綺麗な赤だ」
傷つけられた身体。にじみ出し、やがて流れ落ちようとする血液。リョータの赤い舌がルビーの洋平の色を舐め取る。傷口に触れると、洋平の全身に痛みが走る。まるでおもしろがるかのように繰り返し、口の回りを真っ赤に染めたリョータは、やがてそのまま洋平の唇に触れた。洋平の血は持ち主の唇をも赤く染める。
噎せ返るほどの血の匂いが、神経をおかしくさせる。それは遠い昔の記憶。狩猟時代の名残なのか。
赤い色。親友の髪の色。コートの上、最高に輝く黒猫が身に纏う衣装の色。
洋平の視界を染める赤 ――
何か、自分を呼ぶものの存在を感じた。
どういう理屈だったのか、洋平には判らなかった。ただよく判らない何かに導かれて、洋平はその場所へと向かっていた。今ではめったに訪れることのない場所。校舎の外れの、おそらく誰も来るはずのない場所。
目の前の茂みで小さな生き物の声を聞いた。異常なほど興奮した鳴き声。揺れる茂みに近づいてゆく。そこに見たのは、白と赤の斑模様の鳥の姿だった。
アザミの茂みに取り残された白い鳥。赤く見えたのは、小さな鳥が流す血の色だった。
(……仕方ねえ)
見つけてしまったのが不運だった。どうしてこういうことになったのか。鳥ならば鳥らしく、空を飛んでいればいいものを。
注意を払って、茂みを分けていった。鳥一羽のために自分が怪我をするつもりはなかった。それでもアザミの棘は皮膚を切り裂く。気配に驚いた鳥が盛大に暴れて、茂みを揺らし、皮膚は更に切り裂かれる。
「じっとしてろ! 今助けてやっから」
両腕で道を開きながら鳥のいるところまで手を伸ばす。その羽根に触れ、包み込もうとしたときだった。開かれた通路を通って鳥はばさっと羽撃く。羽音と数本の血染めの羽根を残して、鳥は自由になり大空へ飛び立っていったのだ。
自分一人だけ取り残されたような気がした。自由を得て大空へ飛び立つ白い鳥の軌跡を見送りながら、洋平は自分がしたことの意味を探そうとした。洋平は鳥を助けたのだ。それは間違いないはずなのに、なぜか鳥に感謝されている気がしなかった。洋平に対しても抵抗しようとした鳥。鳥にとって洋平の手は、このアザミの檻と同じものだったのかもしれない。
後味の悪い時間。見えなくなった白い鳥。鮮血のにじむ両腕は、数日前にリョータに切り裂かれた身体よりもずっと痛かった。今夜もリョータのところへ行く。洋平を傷つけたものがリョータ以外のものであったことに、リョータはどんな反応を示すのだろうか。
立ち上がり、鞄を拾って振り返った。その瞬間洋平はその生命活動のすべてを止めた。うしろに立っていた人間はこれ以上はないほどに洋平を驚かせたのだ。ずっと避けてきた。空白の一瞬が通り過ぎたとき、洋平は自分の今の表情を正確に把握することができなかった。
(流川……)
取り繕うことができる程度の顔をしているのか。それとも、その一瞬にすべてが伝わってしまうほど、脆い表情をしていたのか。
「水戸」
その偶然の出会いは、洋平に喜びをもたらすことはなかった。焦りと後悔の奥隅で、このアザミの茂みがバスケ部の体育館にきわめて近い場所であることに気づく。流川はいつからうしろにいたのだろうか。こんな偶然が用意されていることを知っていたなら、弱い生き物の呼ぶ声になど耳を傾けたりはしなかった。
沈黙が流れる。何か言わなければならないと思った。しかし言葉は見つからず、流川が両手を伸ばしてくる動作を目で追うことしかできない。
「水戸……」
二の腕を捕まれて顔を上げると、吸い込まれそうな視線とまともにかちあった。そして思い出す。最後に流川と会ったあの日、どんな会話で終わったのか。
「……何すんだよ、放せよ」
―― 二度とオレに触るな! 二度とオレに話しかけるな! オレを見るな!
「水戸……お前、怪我してる」
―― てめえの面なんか見たくねえ! ……オレのこと……考えることすら許さねえ!
「かすり傷だ。洗っときゃ治る。触るんじゃねえうっとおしい」
自分は流川を嫌いなのだと、流川は洋平に嫌われているのだと、それを伝えたかった。忘れてほしかった。それ以外のことなど考えてはいなかった。
「お前がもし、誤解してんなら……」
黒猫の瞳は、見ている自分が切なくなるほどの深い黒。いったいどのくらい傷つけたら、黒猫は自分を見つめるのをやめるのだろう。あのとき以上にひどい言葉など考えつくことはできないのだ。
「誤解、って何だよ。誤解してんのはお前の方じゃねえのか? オレは別にお前にかかわりてえなんて思っちゃいねえよ、はなっから」
「!」
「からかって楽しんでただけだ。かげで笑ってたんだよ。だけどもう飽きた。あんましつけえと ―― 」
その言葉のあとの流川の反応は、洋平が予想したものとはまったく違っていた。まだしゃべり続けようとした洋平の身体をその腕に抱き締めていた。まるでそれ以上の言葉を聞くまいとするかのように。
洋平の、息が止まった。代わりに首筋に埋められた流川の唇から呻きが漏れて、洋平の心を乱す。高鳴る鼓動を抑えることがむずかしかった。ただ、この腕の暖かさに流されてしまえば、これから先自分が今まで以上に苦しまなければならないだろうことは、無意識の奥底で察していた。
「放せよ。サンドバッグにされてえのかてめえ」
「……笑ってた……」
流川のつぶやきに洋平はどきりとする。かげで笑っていたと言った自分の言葉。流川を傷つけようと口にした言葉は、実際に流川を傷つけたとき、洋平の心にも消えない傷になる。
「ああ、そうだよオレは……」
「あんときまでは笑ってた。あんときから笑わなくなった。誰といても、どこにいても、いつも笑ってた。オレが見てても、見てなくても、いつも」
まるで異なる国の言葉を聞くように、洋平には意味がつかめなかった。その言葉が自分を責めるものではないと知ったとき、洋平は愕然とする。どんな言葉も流川を傷つけることはできないのだという事実に。洋平の言葉のなに一つとして、流川を遠ざける言葉にはなりえないのだ。
流されそうになる。流川を忘れると決めた心が、崩されそうになる。
「水戸……」
最後の科白だけは、言って欲しくはなかった。まだなにも起こらず、視線を交わしていたあのときに、流川の口から言わせたかった言葉。その科白だけは言わせたくなかった。聞いた自分の心の強さを確信することはできなかったから。
「放せ。二度とオレに姿見せんな」
自分ができる精一杯の冷ややかさで言い放つ。その冷たさは、流川の腕に微妙に伝わっていた。気配が変わる。二度目の奇跡を起こすことは、洋平が思っていたよりもはるかに易かった。
「……オレはお前を見てる。お前が気がつかなくても、お前のこと見てる。もしもお前が笑ったら、一度でもお前が本気に笑ったら、そしたらもう見ねえ。……諦める」
本気で笑ったら流川は諦める。
それは、今の洋平には不可能と同義語だった。
「オレは笑ってる」
洋平のつぶやきは、もはや誰の耳にも届かなかった。洋平の身体を解放し、一瞬だけ苦しげな視線を向けて遠ざかってゆく流川。茂みに傷ついた両腕を抱きしめて、洋平は思う。いずれのやり方であれ流川を幸せにすることは自分にはできないのだと。
今の洋平には、自分の心のバランスをとることだけで、精一杯だった。
「宮城サン、なん……アァ!」
後ろ手に縛られベッドに固定された腕がきしむ。仰向けにされて足を引かれ、のしかかるリョータの重みに、不自然な状態の肩の骨が今にも折れそうな痛みを伴う。
「痛ッ……!」
「うるせえ! 黙ってろ!」
すでに限界を越えた腕の痛みに、更に両足を開かれ侵入してくるお馴染みの痛みが上乗せされる。今の洋平には楽な姿勢というものは存在しなかった。声を上げることだけが、残された唯一の自衛手段だった。
「アァッ! アウッ! イッ……うグ」
さっき腕を縛るために使ったタオルの余りがリョータの手によって口に捩じ込まれていた。洋平の叫びはくぐもった呻きに変わる。洋平にはまだ信じられなかった。更に洋平の両足は深く折り曲げられ、もはや足か腕かの二者択一しかこの痛みから逃れる方法はないかに思われた。
この無茶は、今までのリョータでは考えられない行為だった。それまでのSEXが一般的だったとは思わない。だが、ここまで洋平を傷つけるためだけのSEXに興じる意志を見せるなど、まるっきり初めてのことだったのだから。
腕のきしむ音はベッドのきしみに掻き消されて聞こえなくなる。そのバランスは微妙な精神の糸の上に危うく成立している。一瞬でも気を抜いたら終わりだ。もはや二人の間だけの問題としてごまかすことすらできなくなる。
「あぁ……洋平」
気を失いそうなほど消耗しきった意識に、その呼びかけはぼんやりとしか響かなかった。口内の異物を押しのけようという舌の動きすら既に散漫になっている。痛みすら忘れかけた自分に洋平はある驚きを感じていた。どんな肉体的苦痛にも、自分は慣れることができるのだという事実に。
「……さねえぞ……お前……洋平……」
無意識の中で逃げようとじりじり引き寄せられていた腰が、リョータによって引き戻される。一瞬の痛みに洋平は仰け反る。腱が切れるのと骨が折れるのと、いったいどちらを先に経験することになのか。
異常な緊張を強いられた身体に、洋平は自分が五体満足で部屋を出ることすら諦めかけた。踏み止まることに全能力を注ぎ込んでいた腕の筋肉を緩める。その時だった。リョータの動きが早くなり、その言葉が洋平の耳に飛び込んでくる。
「洋平、お前、流川とやったのかよ! お前はオレのもんだって、こんなに身体に叩き込んでやってんのに、なんでほかの奴とやんだよ! そんなに流川がいいのかよ! 糞ったれ!」
罵声を浴びせながら絶頂を迎えることがリョータにとってどのような意味を持つのか、誰にも理解できなかった。動きを止めたリョータを洋平は複雑に入り混じった感情そのままに見つめた。一瞬だけ視線が合う。だが、それを嫌うようにリョータはベッドを降り、脱ぎ捨てた衣服を掴んで洋平が対応するまもなく部屋から立ち去っていったのだ。
洋平はしばらく、自分の苦しい体勢を修復することすら忘れて、呆然とリョータの去っていったドアを見つめていた。自分の中にどんな感情が渦巻いているのか、自分自身で把握することすらできなかった。しかしやがてそれ以上の変化が周囲に起こるはずもないということが理解されて、洋平は体勢を楽なものに変えようと蠢いた。後ろ手の縛られたベッドの縁に身体を寄せ、口に捩じ込まれたタオルを足で器用に外す。そうしてよりかかって初めて、洋平は大きく息を吐くことができた。
―― そんなに流川がいいのかよ!
複雑に絡み合った感情の糸を解きほぐして、最初に意識されたのはわずかな怒りだった。流川とやった覚えはない。それはリョータのためではなかったけれど、リョータのせいではあるのだ。勝手に勘違いして今日の所業におよんだのだとしたら、洋平の痛みも苦しみもまるっきり空虚なものでしかない。
自分はいったいリョータに何を期待するのだろう。洋平は初めてその真実に向き合っていた。リョータの身体に満足する自分は知らない。求めていたものが身体でないならば、リョータを求める理由はたった一つしか思い当たらなかった。
一番である必要はないと思っていた。だけどこのSEXに理由がなければ、一番大切なものを遠ざけてまでのめり込むことはなかったのかもしれない。流川に戻ることなどできない。それを理由に地獄を見ることなど、生きている人間にできるのだろうか。
―― 流川とやったのかよ!
たぶんリョータは見ていたのだ。今日の自分と流川を。そこまで思い至って、洋平はまた判らなくなっていた。真実から目を背ける。絶対に認めてしまいたくない一つの真実が、洋平の思考に歯止めを掛けていた。それは、穢れを知らない純粋さの存在を信じていたいという、洋平の若さがもたらす矛盾だった。
数時間の時を、洋平はリョータが出ていったそのままの状態で過ごしていた。
縛られた手首を自由にすることはそれゆえにできなかった。逆手を取られているので寝転がることもできない。誰かに外してもらわない限り、服を着ることすらできないのだ。そしてこの場合、誰かとはリョータ以外にはありえなかった。
堂々巡りには飽きていた。このままリョータが戻らなければどうなるのか。数時間前から手首を外すためにもがいていれば、今頃は家に帰りついていたのかもしれない。今日中には戻らないのかもしれないと諦めかけたとき、洋平の耳にリョータが階段を上がる足音が聞こえていた。
ドアを開けたリョータはふらりと足元をよたつかせて、ベッドを見て驚愕する。これほどまでに情けない表情のリョータを見るのは、洋平は初めてだった。
「洋平……」
近づいてくるリョータはアルコールの匂いをさせていた。驚きに見返す洋平に、まるで赤子のような幼い顔で、リョータは言ったのだ。
「何でお前……何でいるんだよ!」
リョータが縛りつけたまま出て行ったから動けなかったのだ。しかしその言葉は洋平の口から漏れることはなかった。リョータは洋平の身体に触れ、子供のように抱きついていた。洋平に対して優位を譲ることのなかったリョータは今、その仮面のすべてを剥がそうとしていた。
「何でだよ、洋平。オレ、あんな酷いことしたのに、何でオレのこと待ってんだよ! どうして流川んとこ行かねえんだよ。お前、オレといて一度も笑ったことなんかねえのに……」
気づいたのだろう。リョータは洋平を縛っていたタオルをほどいた。洋平の両手が自由になる。しかし洋平は逃げる気はしなかった。初めて見せてくれたリョータの心。アルコールの力なしでは聞くことのできなかった、リョータの気持ち。
「オレのこと嫌いだっただろ? ちゃんと判ってんだよ。だけど欲しいと思っちまったら止まんねえよ。……いつも笑ってて、オレのこと魅きつけて、抱きたいとか、キスしたいとか、ずっとチャンス待ってて、だけどお前を閉じ込めたらオレは後悔ばっかしてて……判んなかった。ごめんな、洋平」
いつしか、洋平はリョータの身体に腕を回していた。どうしてリョータといるのか判らなかった。その欲しかったものを、洋平は手に入れることができたのだ。欲しかったのはリョータの一番だった。リョータにとっての一番が、自分であること。
「宮……リョータ」
「洋平……ごめん」
あがけばあがくほど傷ついていた。自分の気づかないところで、助けてくれる腕を求めていた。自由に飛べないのならばずっとそこにいればいいのだ。そうすれば誰も自分を傷つけない。自分のために黒猫を傷つけることもない。
リョータを好きになろう。洋平はそう、決心をしていた。好きになれば笑える。そうして笑ったとき、黒猫はもう自分を顧みることはなくなるだろう。
「リョータ」
そしていつか、リョータこそが洋平の一番になる。一番穏やかに、リョータだけを見つめられる自分になれる。
アザミの檻は、赤い花を咲かせる。
了
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