AMBIVALENTS



  放射世界

   一

 洋平が初めて闇というものの存在を知ったのは、春の第八期、第六ピリオドの頃だった。
「闇とは光と対極を成すものの総称としての意味で使われることが多い。みんなは今、光の塔の地下の世界で生活しているが、たとえば光の塔の外へ出られたとしても、そこには闇はない。それどころか、この星のいたるところ、闇というものは一切存在していないのだ。そのため研究者の言葉ではこの世界は光の世界と呼ばれることもある。しかしいかに光しか存在しない世界であるとはいえ、理論的に闇の存在を肯定することはできる。二元論という概念を追及し始めると長くなるのでここでは触れないことにするが、闇というのは要するに光の反因子である。光はその性質は放射であるが、闇は吸収である。哲学者および精神医学者の概念としての理論では、光は善であり闇は悪であるという捉え方もある。その真偽はどうであれ、闇の性質というものは光の性質をより多く知ることで理解を深めることができるのだ。逆に、闇の性質への理解が、光をより深く知ることへの第一歩とも成りうる。ここで、みんなに一番身近な闇を体現する方法を教えることにしよう」
 コンパートメントに戻って一人になってから、洋平は教えられた方法を試してみた。目を閉じて、さらに両目を両手で二重に覆った。そうしてじっと動かずにいると、洋平は自分の足元から得体のしれない寒気が襲ってくるのを感じた。更に動かずにいると、見えざる手が洋平の心臓を鷲掴みにしているような恐怖を感じた。洋平はその見えない手こそが悪なのだと思った。そして、その悪の存在を感じさせない光は、善そのものなのだと思った。
 まぶたの裏の闇の世界を、しばらくの間洋平は忘れることができなかった。

   二

 コモンの異常出産は巡を追うごとに少しずつ増え続けていた。その数は、洋平が生まれた十八巡目の春の第一期にはコモンの総出産数の約二パーセントにまで達した。夏生まれる第二世代と秋に生まれる第三世代については、コモンが聖地から遠く離れた砂漠の向こうに移動してしまうため正確なデーターがとれなかったが、冬に再び聖地に戻ってくる第三世代の総人口は、明らかに減少傾向を示していた。それは異常出産に加えて、第二世代及び第三世代の間で伴侶をめぐる殺し合いが数多く行われていることを示すものだった。十八巡目の春、第一期に正常に生まれた第一世代の人数は、五千組一万人を切っていた。
 十八巡目の春の第一期、光の塔に送り込まれてきた異常出産の子供達は百人を越えていた。その殆どが双子として生まれることのできなかった子供で、九割が一人で生まれたもの、残りが生まれてまもなく双子のうちの片方を亡くしたものだった。その子供達も春の第四期を迎える前に約六割にまで減っていた。春の第十六期第八ピリオドの現在では、光の塔に住む第一世代の子供達は、正確に六十一人だった。
 洋平は運よく生き残ることのできた子供の一人だった。そして、洋平より四ピリオドほど早く生まれたリョータも、その一人だった。
「洋平!」
 その日、十七巡春生まれの数少ない長老の一人が行う歴史の特別講義に出席するため先を急いでいた洋平を、リョータが呼び止めた。生きている長老の中で、十七巡春生まれの第一世代は最高齢だった。光の塔の中に三人しかいない第一世代の長老の講義を聴き逃してしまうかもしれないことを思って、洋平は苛立ったように振り返っていた。
「悪い、あとにしてくれよ。急いでるんだ」
「新薬のめどが立ったんだ。今までの薬より断然成功率が高くて臨床実験でも今まで成功しなかった異常出産の個体にまで性徴が見られて−」
「講義が終わったらゆっくり聞くよ」
 足を速めて白い光に囲まれた廊下を歩いていく洋平は、リョータが別れ際に言った言葉などもう耳に入っていなかった。

   三

 洋平が歴史に興味を持ったのは、自分の名前の由来を聞いたときだった。生まれてから二十期を過ぎた大人達は、洋平が自分の名前を口にしたとき、必ず同じ反応を示していた。そして口々に言った。それは楽園を拒むことを選んだ一人の第四世代の名前であると。
 その時代は異常出産が今ほど一般化していなかった。伝説の洋平は、知的好奇心を満足させるというコモンにはあるまじき過ちの代償として、冬がくる前に自らの身体を変化させてしまった。しかし洋平はその過ちを受け入れた。本来なら春の第一期に生まれるはずの子を、冬の第十三期に生んだのだ。
 冬に子を生むことはこの時代には考えられないことだった。子供は寒さに耐えられずに死んでしまっていても不思議はなかった。しかし子供は生き延びた。そしてその子は成長して、光の塔の長老の一人にまでなったのだ。
 洋平の名前は奇跡と同義語だった。そう名乗った洋平に対して大人達は皆いい名前だと言った。そしてほんの少しだけ期待した。伝説の洋平のように、この洋平も人がなし得なかった奇跡を起こしてくれるかもしれないと。
 洋平がリョータのような性医学を選ばず、歴史と哲学と宗教学に懸想したのは、半分は奇跡を期待する周囲への反抗心からだった。後に空間物理学にのめり込んで歴史はせいぜい特別講義を聴く程度になってしまったが、リョータとともに性ホルモンの研究に入れ込んで、唯一の伴侶を持たない異常出産の第一世代に子供を生ませる新薬を開発するつもりにはなれなかった。
 年老いた長老の、おそらく最後になるだろう講義を聴き終えて、洋平は思い立って光の神殿を訪れていた。神殿は洋平のコンパートメントより八階層分ほど上層にあった。冬の第十三期から第十八期までと夏の第一期にはコモンの拝礼も許されたが、今はその時期ではなかった。そして同じ時期には洋平達光の塔の人間は拝礼を禁じられたから、神殿で洋平がコモン達と会うことはないのだ。
 洋平は、神を見上げた。人々にあまねく平等に恵みを授け続ける神とは、光のことだった。光とは放射のことだった。放射とは、永遠という意味だった。
 やがて、リョータが来た。

   四

 リョータが出入りしている研究室の研究そのものは目新しいものではない。異常出産で生まれる子供はそれまでも一世代に数人ほどは確実に存在していたので、彼らは独自に子孫を残す方法を模索していた。やがて異常出産の割合が増え、光の塔で暮らす人々の科学のレベルが上がり始めると、それは性ホルモン学という一つの分野を確立するに至った。季節が変わった第一期、人間は伴侶を持ち、その二人のうちどちらかが自らを女性化させる。その自然のメカニズムを解明して薬品で肉体の変化を促すことができれば、異常出産によって自然が決めた伴侶を得ることができなかった光の塔の人々も子孫を残すことができるようになるのだ。
 研究の成果は既に現われていた。現在光の塔で暮らす人々の約七割は、薬品で肉体を変化させた結果生まれた人々である。そうして生まれた二世はコモンの異常出産によって光の塔につれてこられた人々よりもさらに薬品の成功率が顕著だった。世代を重ねるごとにどんどん成功率が上がって、七割という大きな数字になったのである。
 神殿に現われたリョータの興奮した話し声を、洋平は冷静に聞いていた。今実験中の新薬は、コモンの異常出産で生まれた一世に対して、かなりの効果を上げているというのだ。それまでの薬では約一割の人間を変化させることしかできなかったというのに、新薬では一世の実験モニターの六割を女性化しているというのである。
「−なにしろ協力してくれた第一世代十人のうち六人が性徴の兆しを見せ始めたんだ。一応十五期を過ぎて幼体から脱してるとみなされた奴から始めたんだけど、個人差もあるから身体が成熟しきれてねえ奴もいたかもしれないじゃんか。それで六割の数字なんだぜ。これが十八期だったら、もっと成功してたかもしれねえよ」
 洋平は自分に対するリョータの気持ちを知っていた。だから、リョータが何を言いたいのかは判った。
「洋平……お前も、試してみてくれねえかな」
 洋平がリョータの伴侶になる。リョータの伴侶になって、リョータの子供を産む。三期を過ぎたあたりの幼い頃からのリョータの記憶がある。リョータにとっては、洋平と伴侶になるのはごく自然なことなのだろう。
 断わり文句を探しているように見えたかもしれない。
「オレはまだ十五期を過ぎてねえよ」
「知ってる。だけどあと三ピリオドだ」
「お前が試せばいいじゃんか」
 リョータは洋平を引き寄せ、唇を触れた。リョータにとってそれは自然な行為だった。洋平もそれを自然だと思うことにしていた。リョータが自然だと思っていることを洋平が不自然だと思う理由はないような気がした。
「あと三ピリオドは、お前が考えて決める時間にする」
 その抱擁は、けして悪には見えなかった。


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