赤と黒のイノセンツ



 思えば、最初に花道に抱かれた時から、オレの歯車は少しずつ狂い始めていたらしい。
 中学最後の日、花道は記念すべき五十回目の失恋をした。気の毒になるくらい落ち込んでた花道を何とか元気付けてやりたくて、オレは奴の部屋に行ったんだ。その時、花道はオレに言った。
『オレ、洋平のこと抱きてえ』
 花道を慰めるだけのつもりだった。花道だって高校行って新しい生活を始めれば、絶対新しい女に惚れるだろうし、一度っきりのオレとのことなんか忘れちまうって。実際、花道は忘れちまった。時々思い出しちゃあったかい思いに浸ってるみたいだけど、オレに対する態度は前と少しも変わらなかったし、晴子ちゃんに向ける純粋な恋心も昔と少しも違ってやしなかった。
 だから思わなかった。
 オレが、オレ自身がこんなにも花道を求めちまうようになるなんて。
 オレは無意識に花道を求めた。そんなオレの無意識はこともあろうに流川の奴に見破られた。流川はオレが花道を見てることを知って、オレにキスして言ったんだ。
『お前の身体がオレを誘ったんだ』
 今までの感情を満たすように、オレは流川に抱かれた。たぶん、流川の眠っていた欲情を掻き立てたのはオレだ。流川が言うように、オレの身体が流川自身を誘ってたんだろう。何もかも忘れてオレは流川におぼれた。流川の身体を、花道の身体の代わりにして  
 どうしてこうなっちまったんだろう。オレは流川に抱かれたくなんかなかった。その一方で、オレは流川に抱かれたかった。流川に抱かれて満たしたかった。オレの中の渇いた部分を。
 だけどそれで満たされるはずもねえ。
 渇きがよけいに増しただけだ。
 どうしたら満たされるのか、オレ自身にもよく判らなかった。もう一度花道に抱かれて、それで本当に満たされるのかも。だけど判ることもある。花道以外の奴じゃ、絶対に満たされねえ事。流川でダメだったんだ。ほかの奴で大丈夫な道理がねえ。やっぱ、花道でなけりゃオレはダメなんだ。そして、今の花道にオレを抱けだなんて言えっこねえ事も。
 花道には何も言えねえ。こんな狂った感情に花道を巻き込むことはオレには出来ねえ。オレは花道が一番大切だから。花道は晴子ちゃんでも誰でも、とにかくかわいい女の子と正常な恋をした方がいいに決まってる。それが花道にとっては一番の幸せだ。花道のためには、オレは奴から離れてやるしかねえから。
 悶々とした思いをかかえたまま、オレ達は高校最初の夏休みを迎えていた。
 夏休みの最初のイベント、花道のシュート合宿の日を。

 その朝、オレは合宿に必要な日用品と下着とTシャツ一週間分をバッグにつめて、学校へと向かっていた。駅で高宮達に合流して、列車に乗り込む。高宮は合宿の大荷物のほかに、ハンディビデオをかかえていた。
「それが例のビデオカメラだな。オヤジも年寄りのくせにやることはハイカラだよな」
「花道のシュートフォームを撮る訳だろ? 一週間でどれだけ成長するか知らねえけど、合宿終わったら編集して成長記録作ってやろうぜ」
「いいねえ。そしたらリポーターが必要だな。オレがやってやるからカメラ回せよ」
「花道の奴ぶっ飛ぶぜ」
 三人の話にいまいち乗り切れねえオレは、ほけっとして窓の外を見ていた。三人とも今じゃすっかり花道の応援団だ。オレ一人だけ、自分の居場所を見失ってる。
「洋平、降りるぞ」
「ん? ああ……」
 しっかりしろよ。元気のねえところ見せたら、花道によけいな心配かけちまうだろ。
「洋平、最近お前疲れてるか?」
 歩きながら、忠が聞いてくる。奴もけっこう人のことには敏感だからな。まあ、花道がああだから、忠の奴もオレと花道がどうかしたとは思ってねえだろうけど。
「そんなことねえよ」
「夏休みで新しいバイト入ったんだろ? 少しは休めよ。最近のお前元気なさすぎだぜ」
「五月病かもな。花道はふられねえし」
「何言ってやがる。……ったく、お前は何もかも一人で抱え過ぎんだよ。悩みがあるんだったら相談くらいしろ。オレ達ゃそのへんのナスやキャベツじゃねえんだぞ」
 ナスにキャベツか。さしずめお前がナスで、大楠がキャベツだな。高宮はカボチャってとこか。想像して、オレはちょっと吹き出した。
「そうやって笑ってろ。その方がお前らしいぜ」
「ああ」
 覚えとくよ、忠。そう簡単に相談できることじゃねえが、お前がそう言ってくれたことは肝に命じとく。もしも本当ににっちもさっちもいかなくなったら、その時はお前に相談するさ。お前らはきっと、オレの応援団にだってなってくれるだろうから。
 今日一日分くらいの元気を忠に分けてもらえた気がして、オレの足取りは軽くなっていった。

 その日の夜、オレは眠ることが出来なかった。
 部室で雑魚寝したほかの連中は既に高いびきを上げていた。オレが眠れなかったのは牛顔負けの高宮のいびきのせいだけじゃねえ。横になって最初に頭に浮かんでいたのは、昼間の合宿の様子だった。
『パスよこせ洋平! 今のを忘れないうちにうつんだ! 早く!』
 花道の目に映るのは、ゴールとボール、それに晴子ちゃんだけだ。オレを見てるのにオレのことなんか目に入っちゃいなかった。オレの名前を呼んでるのに、オレのことなんか考えちゃいなかった。そんな事は当たり前だ。考えてるオレの方がおかしい。
 すぐそこにいびきを立てる花道。こんなに近くに花道がいる。だけどものすごく遠くて、世界中で一番遠い存在のような気がして、オレは涙を噛み殺した。何も知らずに眠る花道。もしもお前にキスしたら、お前は応えてくれるか? オレのことが一番好きだっていってくれるか? お前に抱かれたあのときみたいに。
 オレのプライドにかけて、そんな事は出来ねえ。
 今の花道は最高に輝いてる。オレのちっぽけな独占欲なんかで、花道を縛り付けたりできる訳がねえ。本当に花道が好きならオレは生涯花道の親友マブダチでいるしかねえんだ。万が一オレが花道から離れていったりしたら、見かけより繊細な奴のことだ、立ち直るのにやたら時間がかかるだろう。
 くっそーっ! オレはいったいどうしたいんだよ!
 ふっきりてえんだったらさっさとふっきれよ! いつまでも女々しくめそめそしてる気かよ!
 ここでこうしてたってどうにもなんねえ。オレはTシャツとGパンと財布だけひっつかんでおもてへ出た。どこへ行こうと思った訳じゃねえ。ただ、この場所からのがれたかった。
 花道の寝息の聞こえるこの部屋から。
 そしてオレはこの夜の彷徨い人になった。


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