蜘蛛の旋律
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これがゲームなら、コンティニュー画面が出てYESを選ぶと、セーブポイントから再び始められたりするのだろう。
だけど、ここは野草の下位世界で、黒澤弥生の小説の中で、オレにとっては現実だ。もしも他人の下位世界で死んだらどうなるのだろう。現実の世界でも死んでしまったりするのだろうか。
オレにのしかかっていたシーラは、ゆっくりと身体を起こして、少し呆れた感じでそれでも微笑んで見せた。手に持っていた包丁を遠くに投げ捨てる。オレは自分の胸を見て、血の一滴も流れておらず、1つの怪我もないことを確認した。驚いてもう一度シーラを見上げると、彼女は、いたずらが成功した子供のような表情で、倒れたオレに手を差し伸べた。
「驚かせたね。とりあえずあたしは正常だから安心して」
そう聞いて、オレは心の底からほっとしたと同時に、今更ながら心臓がバクバク鼓動しているのを感じた。立ち上がって、深呼吸をして、落ち着ける。シーラは正常なんだ。シーラは自我を持ったキャラクターだから、何かに操られてオレを襲ったりはしないんだ。
だけど、それならなんで、シーラはこんなことをしたのだろう。
「シーラ、どうして」
それしか言わなかったけど、オレが言いたいことは伝わったらしかった。
「巳神、勝負の基本は先制攻撃。相手に攻撃する隙を与えないことね。それと、攻撃には適正距離っていうのがあって、もちろん遠すぎてもダメだし、逆に近すぎてもダメなの。例えばパンチングマシーンでいい成績を出そうと思ったら、それほど近くない位置で打つでしょう? だから、あんまりケンカに自信がないんだったら、先制攻撃で胸に頭突きを食らわすのがいいの」
そう、まくし立てながら、シーラはオレの胸に頭突きを食らわす仕草をした。そして、オレが返事を返す間もなく、再び続けた。
「ここまで懐に深く入られたら、相手はそう簡単には攻撃できないよ。もちろん慣れてる相手には効かないけどね。でも、少なくとも相手を驚かせることはできるはず。さっき、あたしが巳神を驚かせたみたいにね」
どうやらシーラは、それをオレに教えるために、ああいう行動を取って見せたらしかった。
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「それじゃ、あたしこれで行くから」
そう、シーラが言ってくるりと背を向けて歩き始めたから、オレは驚いてシーラの前に立ちはだかった。
「ち、ちょっと待ってくれ。どうしていきなり」
言ってしまってから気付いた。今のオレはあまりに情けない姿をシーラに見せてしまったから、呆れられたとしてもしょうがないんだ。こんな奴といっしょに行動しても、先行きの展望は見えないだろうから。
だけど、シーラがそう言った理由はそれだけではないようだった。
「タケシが心配なの。……巳神は、あのお爺さんが誰かに操られてるように見えなかった? あたしはタケシを眠らせてきた。眠ってる身体の方が操りやすいってことだってあるでしょう? とにかくタケシの様子を確かめたいの」
そう言ってまたシーラはオレを追い越していこうとしたから、オレも再びシーラの前に回り込む。本音は、シーラとこれからもずっと一緒にいたかったんだ。だけどそうとは言わずに必死になって言い訳を考えていた。
「たとえタケシが操られてたとして、シーラ、君にどうにかできるのか? それより野草を捜す方が先だろ。野草の自殺願望がなくならない限り、この世界は明日の5時20分に消滅しちまうんだ。タケシだって助けられないじゃないか」
オレの言っていることは真実で、理にかなっていた。たぶんシーラも判ってくれる。だけど……シーラはちょっと諦めたような笑いを見せて、立ちはだかったオレに近づいて、頬に触れてきたんだ。間近になってしまったシーラの表情にドキドキした。その綺麗な瞳には、見ていて切なくなるような表情が浮かんでいたから。
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「巳神には判らないよ。……人を好きになったことのない巳神には、ぜったい判らない」
シーラはオレを見つめたまま、諦めたような、オレを哀れんでいるような声色でそう言った。オレは何も言うことができなかった。確かにオレは、現実の人間に恋をしたことなんて、今までなかったから。
「巳神が言ってること、理屈では判るよ。今あたしがタケシの傍に行ったところで、なにもできないしなにも変わらない。でも、理屈では判ってても、あたしは今タケシのところに行きたいの。……だってあたし、タケシにまだ何も言ってないんだ」
オレが読んだシーラの物語。2人は互いの気持ちを確かめられないままで、物語は終わっていた。たぶん野草は続編を書くつもりでいたのだろう。読んでいるオレには2人の気持ちははっきり判っていたのに、2人だけが、互いの気持ちを知らなかった。
もしもオレに好きな人がいて、あと数時間で世界が終わるとしたら、オレも最期の時をその人と過ごしたいと思うのだろうか。
オレは今、シーラと一緒にその時を過ごしたいと思い始めている。
「巳神には判らない」
シーラは再び言って、オレから離れた。
「あたしの気持ちも……あたしにそんな苦しみを与えた薫の気持ちも」
けっきょく一言の反論も許さないまま、シーラは駆け出していった。うしろ姿を見送る。オレはタケシに負けたのかもしれない。胸がチクチクと痛んで、その情けなさに涙が出そうだった。
だけど、心を落ち着けて冷静にあたりを見回したとき、オレは自分がとんでもないところに置き去りにされたことに気付いたのだ。
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本屋の前はほとんど路地と言っていいほど細い道で、たまに思い出したように街灯が立っている。今はその下に老人が気を失って横たわっていて、少し離れたところには例の包丁が落ちていた。はっきりした位置は判らないけれど、ここはオレが通学に使っている駅だから、方角くらいならば何とか判る。たぶん5分も歩けば駅のロータリーに出るはずだ。終バスは10時。ただし、動いていればだけど。
前に財布を忘れて根性で走ったことがあったっけ。確か学校までノンストップで30分近くかかったんだ。なんだか本気でシーラを恨みたくなってきた。オレに足がないのは判ってたことなんだ。せめて野草の病院まででも送り届けて欲しかったよ。
そこにそうしていても仕方なかったから、オレはたぶん駅だと思う方角に向かって歩き始めた。しばらく歩くと見慣れた景色が現われて、オレは念のため、毎朝乗っているバスの停留所に向かった。当然誰もいないだろうと思ったのに、バス停にはバスを待っているらしい人影があったのだ。近づいていくと、それが会社帰りのOLらしい1人の女性であることが判った。
誰だろう。ここにいるのだから、彼女も野草の小説の登場人物だろうか。だけど、オレが今まで読んだ小説の中には、OLなんて出てこなかったんだ。野草の話は空想小説、どちらかといえばSFに近いもので、普通のOLが出てくるチャンスなんてめったになかったから。
「あの、すみません」
本屋の爺さんの例もあったから、オレはかなり警戒しながら声をかけた。振り返った女性はオレを見たけれど、特におかしな反応は見せなかった。
「はい、なんですか?」
「バスを待ってるんですよね。次のバスは何時ですか?」
少し顔を赤くした女性はどうやら職場の飲み会帰りといった感じで、ちょっと不審そうにオレを見上げているほかは、普通と変わった様子はまったくなかった。
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「次は9時半ですけど……私、もう30分くらい待ってるのに、前のバスも来なかったんですよ。9時にくるはずだったのに」
女性は受け答えもちゃんとしていたし、言っていることもおかしなことはない。もしかして……この人は野草のキャラクターじゃないのか? だけど普通の何の関係もない部外者が、野草の下位世界に存在したりするのか?
少し確かめてみたくて、オレは更に女性に話し掛けた。
「夕方、向こうの路地で爆発事故があったの、知ってます?」
バスを待っている間の退屈しのぎに世間話を始めたと思ったのだろう。女性は少し表情を緩ませた。
「夜のニュースで見たよ。なんだか怖いよね。高校生の女の子が重態とか言ってたけど」
「その子、オレの同級生なんですよ。テレビで名前言ってました?」
「言ってたけど覚えてないな。……そう、君、その子の同級生なんだ。心配だね」
野草のことでもまったく反応を見せなかった。たぶん、この人はシーラのような、すべてに気付いた野草のキャラクターじゃない。オレが知らない野草のキャラクターなのか、それとも本当に無関係な人なのか。それは判らないけれど、この人は本当に何も知らないんだ。
よく考えればオレだって無関係な人間なんだ。オレを野草の下位世界に呼んだのは黒澤弥生。この人も黒澤が呼んだのだろうか。どちらにしても、オレはもう一度黒澤に会う必要がありそうだった。
「あの、たぶん、ここで待っててももうバスきませんよ。オレ、走って帰ることにします。あなたも諦めて歩いた方がいいかもしれないですね」
たとえ無事に帰り着いたとしても、彼女の家族はこの世界には存在しないだろうけど。
オレは彼女の返事は待たずに、バス通りを西へ向かって走り始めていた。
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以前学校まで走ったときも遠いと思ったけど、やっぱり駅から黒澤のアパートまではかなり遠かった。
たぶん3、4キロはあったと思う。周りに車がいないことだけが唯一の慰めで、オレは信号も無視して約15分ほど駈け通し駈けていった。
それでやっと、アパートの玄関前まで辿り着く。呼び鈴を押して黒澤を呼び出している間、オレは乱れた息を何とか整えた。やがて顔を出した黒澤に話し掛けようとしたところ、タッチの差で先を越されたんだ。
「あたしはどこぞの占い師みたいに、困ったときはいつでもおいで、なんて言った覚えはないんだけど」
オレはなんだか本気で腹が立って、上目遣いに睨みつけている黒澤に負けじと睨み返して言ったんだ。
「あんたが書いてる小説だろ! 放置自転車の1つも置いとくとか、誰かに迎えに来させるとか、何とかできなかったのかよ!」
「うるさいね。あたしはいつでも真剣勝負で小説書いてるんだよ。こっちだってあんた達に振り回されっぱなしなんだ。シーラだってほんとはもう少し物語の中に留まってて欲しかったのに勝手に消えちゃうし。巳神は薫の居場所突き止められそうな気配はぜんぜんないし」
一言怒鳴りつけたせいか、黒澤の言葉を聞いたせいかは判らないけれど、オレはずいぶん落ち着いてきた。
「黒澤、あんたの小説って、そんなに自分の思い通りにならないのか?」
「ならないよ。っていうか、小説って実際にキャラが動いてくれないと、細かいストーリーが決まらないんだ。最後にどうしたいかくらいの目標はあるけど、そこに到達させるために作者がやることって、あっちにニンジン吊るしたり、こっちで野犬に吠え立てさせたり、要するにそんなことなの。あんたが自分で動かなかったら、この小説いつまでたっても終わらないんだから」
つまり黒澤は、オレが行動したことを小説に書きとめているだけの、いわゆるただのワープロだってことらしい。
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「てことは、小説書きってのは、キャラクターが自分の意志で動かなけりゃ何もできないってことなのか?」
「そ。あたしができるのは、実際に動いてるあんた達の暴走を止めることだけなの。小説のキャラクターは、普通に生きてる人間と何ひとつ違わない。それは巳神にも判るでしょう? シーラも巳神も、あたしの意志で簡単に動かせる程度の人間じゃないんだ」
なんとなく判った。黒澤の小説のキャラクターが、まるで生きて動いているような臨場感を持って読者に訴えかけてきていた理由が。小説書きは、キャラクターを造って舞台と筋を設定する。そのあとはすべてキャラクターしだいなんだ。小説を書くってことは、作者とキャラクターが真剣勝負で戦っているのと同じことなんだ。
「判ったよ。これからまた動くからその前に答えてくれ。……駅のバス停で会った女、あれはいったい誰だったんだ?」
「あんたって……なんでそうやって小説の常識を平気で破ってくれちゃうのかね」
黒澤は呆れたようにため息をついて、それでも質問には答えてくれた。
「あの人は巳神と同じ上位世界の人間だよ。だけど、あたしが召喚したんじゃない。勝手に迷い込んだの」
「どうして」
「薫の下位世界に歪みっていうか、ほころびが出来はじめてるから。もともと薫の下位世界は上位世界と同調することでかなり安定していたんだけど、事故の衝撃でムリヤリ引っぺがされちゃったから、あちこちおかしくなり始めてるの。それでも最初は形を保ってたんだけどね。たぶんこれからもっとおかしくなるよ」
……あれ? この世界は野草の精神が支えている世界なんだろ? それがおかしくなり始めているってことは、もしかしたら野草の精神が影響を与えているってことじゃないのか?
「巳神、いいところに気付いてくれたね。あんたが察した通りだよ。だんだん少しずつ、薫の精神が世界を支えられなくなってきてるんだ」
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野草の精神が、世界を支えきれなくなってきている。その影響は風景だけにとどまる訳じゃない。このままいったら、野草のキャラクター達だってだんだんおかしくなっていくかもしれないんだ。
「黒澤、オレに足を貸してくれ」
「自転車? 車?」
「できれば両方」
免許は持ってないけど動かすことくらいならできる。ただしオートマに限るけど。
「駐車場は向かいのタバコ屋裏で46番にあるグレーのパルサー。アパート西の自転車置き場にマウンテンバイクがある。どっちもあと5年は乗るんだから壊さないでよ」
そう言って黒澤は鍵をよこした。世界が壊れるって時に何をのんきなことを言っているんだろう。
「あと1つだけ教えてくれ。オレがさっき本屋の爺さんに襲われたの、あれは誰かが爺さんを操ってたってことなのか?」
「巳神はそう感じたんでしょ? だったらそれが真実なんだよ。巳神は今までの小説の流れと人生経験からその答えを導き出した。当然片桐信の行動も伏線になってる。読者が納得できるうちは、その答えで十分なんだよ。あんたは登場人物なんだからあんま小説のストーリーにまで口出さないでくれる?」
なるほど、黒澤はいろいろ先のことも考えて伏線張りながら小説を書いているってことか。
たぶん、オレがここまで自力で走らされたことにも、それなりの意味はあったんだ。
「判ったよ。基本方針は野草を捜す、これで間違いないんだな?」
「それがすべてだと言っても過言じゃない」
「判った。何とかしてやる」
そう言って、オレは黒澤のアパートを出た。
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少し迷ったのだけれど、オレは目の前の道路を渡って、駐車場の方に向かった。黒澤の車はすぐに見つかった。古い上にあまり乗ってもいないのか、ボディはかなり汚れていて、キーを挿してドアを開けても車内に装飾らしいものはほとんどなかった。いまどきオヤジの車でももう少し飾り気があるもんだけどな。しかもウィンドウもドアミラーもハンドパワーだし、集中ドアロック機能もなかった。
それでもとりあえずオートマではあったから、椅子の調節をしてブレーキを踏んでエンジンをかける。割とすんなりかかったところをみると、ぜんぜん乗ってない訳じゃないんだな。ギアをDに移動させて、ハンドブレーキをおろして、ブレーキペダルから足を離せば、あとはアクセルとブレーキを交互に踏むだけで何とか動かすことはできるはずだ。
オレにとっては、他の車も通行人もいないことは幸運だった。ようやく自分専用の足を手に入れて、オレはまず駐車場から出て、西の方角に向かった。野草が書いた小説にゆかりの場所、それを辿ってみるつもりだった。まずは新都市交通の駅。それから、オレたちが通っている高校。
慣れない車を操りながら、新幹線の高架に突き当たって、そこから高架下の側道を辿って少し走った。その時だった。いきなり、ヘッドライトの中に人影が見えて、オレはあわててブレーキを踏んだんだ。
オレの運転する車は嫌な音を立てて少し尻を振りながら急停車した。Gがかかって前のめりになる。だけどボディに衝撃はなかったから、何とかギリギリ人を轢かずには済んだらしかった。
落ち着くように自分に言い聞かせた。そして、ギアを戻してハンドブレーキを引いてから、オレは車を降りた。
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暗闇の中の人影は、車の前に回るとうずくまるようにそこにいた。バンパーから約1メートルくらいのところだ。たぶん轢いてはいないはずだけど、その人は動く気配を見せなかった。
すぐに駆け寄って助け起こす。どうやら気を失ってたらしいな。仰向けにさせると、直接あたるヘッドライトの眩しさを感じたのか、うめきながら身体を動かした。
「おい、大丈夫か?」
目を開けて、それでオレはおそばせながら気がついたんだ。倒れていたのが、オレが最初に野草の病室で会って、そのあと病院近くの空中で誰かを追いかけていた様子を目撃した、あのアフルストーンであるということに。
「ああ、……油断した……」
「どうした? オレ、当てちまってたか?」
「……あれ? ……巳神君……?」
アフルもオレの存在に気付いたようで、割にしっかりした動作で起き上がった。その様子で、どうやらオレも初の単独無免許運転でいきなり交通事故という、不名誉な記憶は残さずに済んだらしいことを知った。立ち上がった後、一瞬バランスが取れないようなふらつき方をしたけれど、本当に一瞬だけですぐに歩き出した。とりあえず、ヘッドライトが当たらない運転席のドアの前まで。
「いったい何があったんだ? ……少し前、空中で追いかけてたあれはなんだったんだ?」
「……見てたのかい? ぜんぜん気付かなかったけど」
「ちょうど野草の病院の上空だった。……あの子供はどうしたんだ?」
アフルはすぐには答えなかった。
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