蜘蛛の旋律



『世界は誰が造ったのか』
 子供のころ、親戚のおじさんがオレに聞いた。オレは子供だったから、自分の持っている知識を総動員させて、なにしろ負けたくなかったものだから、一生懸命になって反論していた。
「宇宙の大爆発で空気とかちりとかが出来て、それが集まって生き物になったんだよ。それが進化して恐竜になって、絶滅してからは小さい生き物が進化して、それで人間になったんだ。人間はそうやってできたんだって、本で読んだよ」
 オレはまだ小学生だった。自分ではあんまり意識していなかったけど、たぶんインテリを気取っていた。みんなが知らないことでも、オレはたくさん知っていたから。だからオレは、中学しか出ていないようなおじさんに、討論で負けたくはなかったんだ。
「それじゃあ信市に聞くけど、その爆発するまえの宇宙を作ったのは、一体誰だったんだろう。生き物を進化させたのは? 人間の魂はどこからきたんだい?」
 オレは言葉に詰まった。そんなオレを見て、おじさんは更につづけた。
「時間を作ったのは誰だろう。空間を作ったのは。おじさんは全て、神様のしたことだと思うんだ」
 オレは必死で反論した。知っている言葉と本で読んだことを思い出しながら懸命に。だけど、絶対に詰まってしまうのだ。『始まりを造ったのは誰か』というところで。そして、もう一言も反論出来なくなったころ、おじさんは静かに言ったのだ。
「どんなに考えても、神様の存在を否定することは人間を超えないかぎり、出来はしないことなんだよ。そして、人間である以上、人間を超えることは出来ないんだ。そのうち信市にも判るよ」
 今思えば、あのときおじさんは、オレの驕りをたしなめようとしていたんだろう。それからのオレは、自分の知識を友達にひけらかしたりはしないようになっていた。
 あのころの思い出は今でも、オレの中にくっきりとした輪郭で残っていた。


 最近のオレの最大の愛読書は、読書関係の雑誌だった。内容のほとんどを読者の投稿で占めているという、金のかかってなさそうな雑誌だ。投稿の短編小説や、ある本についての討論、それから、最近読んだ本でおもしろかった本の感想を募集して、掲載していたりする。3度の飯より読書が好きっていうオレには、まったくもって堪えられない雑誌だった。
 その雑誌の中に、オレはやたらと興味を引く本を見つけたのだ。題名は『蜘蛛の旋律』。たまたまその本について、3人の読者からの批評が載っていた。
―― 主人公の持つ愛情の深さ、崇高さに心から感嘆しました。自分のこれからの生き方の指針として行こうと思います。(神奈川県 大三)
―― 虚構の世界を見事に描ききった、質の高い作品だと思う。未来の現実社会と精神社会とを暗示した、すぐれた作品。(熊本県 会社員)
―― 人間の進化に関する本で、新しい説を示唆してくれました。もしかしたら学会で噂になるのでは。(香川県 大学院)
 オレはものすごく、この本が欲しくなった。なぜってそれは、3人の書いていることがまるっきり食い違っていたから。愛情、虚構の未来、進化、この3つを合わせ持つ作品ていうのは、一体どんな本なのだろう。オレは久しぶりに、わくわくしていた。
 休み時間に友達に聞いて回った。知っている本屋全部回って、出版社に問いあわせてもらおうとしたけど、もともと無名の出版社で、知っている本屋は1つもなかった。近くで最大の本屋にも行ったのに、結局捜し当てることは出来なかった。
 こうなるとオレも負けずぎらい。絶対に読んでやるといきまいて、投稿雑誌の出版社にも問い合わせたが、返事は散々なものだった。その本を出してすぐに、その出版社は倒産しているというのだ。それが半年も前のことで、経営者の行方も判らず、もちろん本の行方も判らない。作者もどこの誰なのか判らない。オレはこの本を諦めざるを得なかった。
 だからオレは、火曜日の部活の日を待って、オレの所属するクラブ、文芸部の仲間に、最後の望みを賭けてみようと思ったのだ。


 オレは高校2年生の巳神信市。子供のころからの本好きがたたって、今は文芸部に所属している。なにしろ本が好きで、週に5冊は読んでいる。手元に読んでいない本が最低1冊はないと耐えられない、だけど、読んでいない本が1冊でもあると読んじゃわないと気が済まないっていう、どうしようもない性格なんだ。
 小学校のころの愛読書は百科事典だった。中学のころから小説に手を出し、部屋の中には既に千冊を超える小説がある。足繁く図書室に通い、友達に言わせると、まるで彼女にでも会いにいくかのように図書館に通うんだそうだ。だからと言って友達が少ない訳ではないと思う。運動だって人並みにできるし、だから、青白い顔をした内気な少年をイメージしてもらっては困るかな。見かけはごく普通のやんちゃな高校生だし、よく笑い、誰にでも声をかける。一般的な、ただの高校生なんだから。
 2学期の中間試験が近いころだった。明日から部活が休みになってしまうので、今日は出ないとならないと思った。もちろん、例の本のことをみんなに聞いてみたかったからだ。文芸部の奴らはみんな本が好きで、オレの知らないことでも知っていることが多い。もしかしたらあの本のことも……なんて思ったら、けっこう気分が乗ってきて、放課後一番に活動場所である地理準備室に駆け込んだ。
 オレがトップかと思ったら、部室には既に、同じ2年の野草薫が座っていた。
「ちわ」
 オレが声をかけると、野草は振り返って会釈をしただけだった。


 野草は無口な女だった。部活中もあんまり人と話をしようとしなかったし、いつもこうやって本を読んでいるか、自分の小説をもくもくと書いていた。自分専用のワープロを持ち込んで、ただキーボードを打ち続けている。文芸部の中でも、彼女を好きな人は、ほとんどと言っていいほどいなかった。
 だけど、彼女は小説が上手だった。短編小説は毎月の会誌でもかならず載せている。センスがいいし、登場人物が生き生きとしていて、まるで生きて動いているかのようなのだ。顧問の先生も絶賛している。雑誌に投稿もしているって噂だ。だけど、彼女のペンネームの載った雑誌はまだ見たことがないから、こんなにうまい小説でも、まだまだプロには程遠いってことなんだろうか。
 オレが読んだことある話は、長編では3つほどあった。美人の女のでてくる(確かシーラとかいった)スパイ物と、前世の記憶の残った巫女が魔と戦うのと、もう1つ、やたらと長いので読むのに苦労した、最初のスパイ物の組織と敵対する組織の話で、これはきっと、文庫本にして2冊分くらいはあっただろう。これはけっこう読みごたえがあった。全部が全部印象的な話で、特に、主人公の女が魅力的だった。本人があんまり魅力的でない分だけ、よけいにオレの気を引いたのだ。
 野草は本を読んでいる。オレは自分の読書中に話しかけられるのは好きじゃなかったから、野草もそうだろうと思って、話しかけることはしなかった。オレは暇だったので、野草の真剣そうな顔を見ながら、タレ目だなあとか、こんなに前髪長くて、目が悪くなったりしないんかなあとか、そんなことを考えていた。暫くすると部長やら副部長やら主だった連中が集まってきたので、野草も読書をやめて、今日は6人で部活が始まった。


 部長がなあなあのまま、今日の部活の終了宣言をしようとしたとき、オレは今日の本当の目的をみんなに発言した。
「くらがね書房の『蜘蛛の旋律』って本なんだけど、知らない?」
「名前は聞いたことあるな。 ―― 雑誌の投稿欄にあった」
「そう、それ。オレ読みたくてさ。誰か知らない?」
「さぁ、判らないな」
 やっぱり、みんな知らなかった。オレも相当探したもんな。諦めるしかないか。なんて思って、帰ろうと思ったら、ふいに、うしろから呼び止められたのだ。
「なに? 野草」
 野草はあんまり人と視線を合わせようとしなかった。ちょっと横を向きながら、ぼそっと、言ったのだ。
「あるかもしれない」
オレはびっくりした。
「え? ほんと?」
「期待しない方がいいけど、あたしがよく行く古本屋は、変な本ばっか置いてある。そんなに欲しい本なら、置いてあるかも」
 野草の言葉は、少し変だった。だけどオレには気付かなかった。あの本があるかもしれない。そのことで、オレの頭は一杯だった。
「それ、どこにあるんだ? 場所を教えてくれる?」
「教えてもいいけど、たぶん行けないと思う。奥まったところにあるから。案内してあげるよ」
 オレは、オレの欲しい本のために野草の時間をつぶすのは悪い気がしていた。野草には読みかけの本がある。早く帰って読みたいに決まっているのだから。
「いいのか?」
「一度案内しとけば、次のときは1人で行けるだろうから」
 一応、これは野草なりの優しさの表現なんだろう。オレが気を使わないように、こんな科白を言ってみる。でもオレに言わせれば、ぜんぜんフォローになってないんだけどね。


 野草の案内で、オレはどうやらその本屋に向かっているようだった。場所は駅の近くらしい。でもこの駅なら、オレが書店回りをするときによく来る駅だ。5つの本屋と1つの古本屋を知っている。すっかり開発しきったと思っていたのに、まだもう1つ古本屋があっただなんて、オレには信じられなかった。それでも、野草には慣れた道らしい。
 オレの斜め前を歩きながら、迷いもせずに歩いて行く。細い路地や私道をくねくね入っていくと、確かに、古本の看板と共に、その本屋は存在していた。野草は看板を確かめるように見上げたあと、一度オレを振り返ってから、中に入っていった。
 本屋の中は古臭いがけっこう広かった。本の壁は5つあったし、2階もあるようだ。漫画はない。この全てを探すのは、骨が折れそうだ。オレは野草にうしろから声をかけた。
「どのへんにありそうか、判るか?」
 野草はあごで奥のレジを指した。
「あたしよりあの人の方が知ってる」
 オレはちょっとむかついたが、ここまでつれてきてくれたのは野草なのだ。オレは黙って、レジに座っていた老人のところまで歩いていった。
 古本屋にいかにも似合いというような、痩せた老人だった。オレが近づいて行くと、ゆっくりと顔を上げ、眼鏡をそっと押し上げた。何故か非現実的な、不思議な気分がした。老人の雰囲気は、まるで生まれたときから老いていて、もう何百年もこの椅子に座って古本を見つめている、そんな感じがあった。その老人が、オレを見て何故か、にやっと笑った。
「本をお求めかね?」
 こんな、当たり前の言葉なのに、オレはどきっとした。そうだ、オレは本屋に来たんだ。本以外に何の用があるだろう。
「ええ、そうです」
「じゃあ、こちらへ」
 オレはこの老人の雰囲気にのまれていた。老人は立ち上がって、ゆっくりと歩いていく。オレは本の題名を言っていなかった。


「この本棚を探してみなされ」
 オレは何か言わなければならないと思った。それは今の場合、本の題名だ。題名も判らずになぜ老人はここへ案内したのだろう。だから、オレは言いたかった。だけど、老人にさからうことは出来なかった。
 しかたなく、オレは本棚を探した。少し探して、ここにはないと言おうと思ったんだ。そうして本棚を見回して……オレは自分の目が信じられなかった。『蜘蛛の旋律』は、この本棚にあった。
「ありましたじゃろ。ここにはたいていの本はあるからの。特に、探している本はな。珍しい本、古い本。どの本屋にも置いてない本だけを集めてあるんじゃよ。薫嬢ちゃんの趣味のような本屋じゃからねぇ」
 老人はふぉっふぉっふぉっと笑って、オレに背を向けて歩いていった。オレは本棚から『蜘蛛の旋律』を取り出して、老人の後について歩いた。老人は隣の本棚で足を止めると、本の埃を払いながら話し始めた。
「このあたりの本は嬢ちゃんが中学生のころに欲しがってなあ。あのころは客が多かった。あんたは嬢ちゃんの友達かね」
 尋ねられて、オレはどきりとした。1テンポ遅れたが、うなずいてみる。
「そうです」
「そうかね。友達かね。嬢ちゃんが友達をつれてくるのは初めてじゃ。そうかい友達かね」
もう一度、ふぉっふぉっと笑って、老人は隣の棚に行った。オレは金を払わないかぎり帰れないから、しかたなくついて行く。本当はこのじいさんの話なんかにつきあいたくはなかった。早く帰って、『蜘蛛の旋律』を読みたかった。


「嬢ちゃんが高校に上がったころ集めた本じゃ。あのころの嬢ちゃんは神の存在に興味を持っててな。ここにあるような本を読みたがった。これはギリシャ神話に関する本じゃ。これは日本神話じゃな。これはロシアの格言集。嬢ちゃんはここの本は買わんからな。あの子は立ち読み専門じゃ。ここの商売は成り立たんよ」
 オレはけっこう困っていた。老人てのはとかく愚痴が多い。何とかしてオレのペースに乗せて、さっさと会計を済ませてしまいたかった。
「あ、あの」
「何じゃね」
「あの、さっき……オレが欲しがってる本がこれだって、どうして判ったんですか」
「ああ、そのことかね。簡単じゃ。先刻学生が16冊の本を売りにきたんじゃが、わしはその本をあの棚に並べたんじゃ。それでじゃよ」
 オレにはもちろん、老人の言うことは判らなかった。だけどそれきり、老人は話をしようとせず、レジに向かって歩き出したので、オレはそれ以上追及しなかった。
 金を払って見回すと、野草の姿が見えなかった。
「外を探してみなされ」
 老人は言うと、意味ありげに笑った。やっぱりオレには、この老人は好きになれなかった。軽く会釈して出口に向かう。


 それにしても、野草に悪いことをしてしまったな。野草が外にでたかどうか、オレは見てなかったけど、老人がそう言うんだったら外にいるんだろう。今日は野草は本を探すつもりはなかったんだろうから、野草の貴重な時間をオレの老人との会話でかなりつぶしてしまったことになる。一言謝らなければと思って、オレは外に出た。
 外は既に薄暗かった。大分日が短くなっている。オレはキョロキョロと野草を探したが、その姿は付近に見当らなかった。まさかオレを置いて帰った訳でもあるまいから、きっとどこかにいるだろうと思って、近くの店や路地を丹念に探した。だけど、野草の姿はどこにもなかった。
 オレと入れ違いに本屋に戻ったのかもしれない。そう思って、また本屋の前まで戻ってくる。すると野草は、あの本屋の中で、老人と話をしているところだったのだ。
 オレはもう一度本屋に戻ろうとした。その時野草はオレを振り返り、そして、驚愕の表情を浮かべたのだ。
 そしてそのつぎの瞬間。
 どーんという大音響。オレは強い風によってふき飛ばされた。本屋が爆発したのだということを悟ったのは、約2秒の後だった。身体をしたたか地面に打ちつけられ、クラクラする頭で見上げた風景は、木造の古本屋がごうごうと炎を上げて焼けている姿だった。
 逢魔が時。オレが最後に見た野草は、オレを見つめ、驚きに目を見開いた表情。あまりオレが見たことのない、野草のまっすぐな視線だった。


10
 野草が運ばれた病院の集中治療室の前には、たくさんの医者や看護婦が行き交っているようだった。もちろんオレは、その部屋の前で待っていることは出来なかった。集中治療室の前には、長椅子などないのだ。オレは同じ階の少し離れた椅子にこしを下ろして、野草の様子を盗み聞きしていた。
 断片的に聞いた話では、全身に火傷がひどく、今夜が峠だという話だった。でも、まだ生きている。オレは野草のクラスメイトではなかったから、もちろん野草の家など知らないし、電話番号も何もかも判らなかった。家族構成も、果たして両親がいるのかさえ、それすら聞いたことがなかったのだ。1年半も同じ部活で一緒にやってきたってのに。
 オレは改めて思った。オレは野草のことなんて、少しも知っちゃいなかったって事を。病院の方から家には連絡が行っているはずだった。だけど、家族の人間は誰もこなかった。時間は既に、7時を回っていた。
 そしてもう1つ、オレが不思議に思ったこと。誰も、あの老人については、一言も話さなかった。病院に運ばれた形跡はなかったから、もしかしたら死んだのかもしれない。それにしても、警察も言わなかったし、遺体が運ばれた形跡すらなかったのだ。逃げたのだろうか。いや、その可能性はない。オレが見た爆発の瞬間の映像では、爆発したのは老人のまうしろだったのだから。
 オレの身体も無事じゃなかった。コンクリートに打ちつけられた身体は打ち身で鈍く痛んだし、その時に頭も打ったので、精密検査が必要だった。今日は入院して明日検査をする予定だけど、オレは今、野草から離れる気はしなかった。病院が用意してくれたベッドを抜け出して、廊下の長椅子に座っていた。看護婦も、野草の彼氏だとでも思ったのか、オレの行動を黙認してくれていた。オレはこれでもけっこう気にしていたのだ。野草がこんな目にあったのは、半分はオレのせいじゃないかってことを。オレが今日、本屋に行きたいと言わなければ、こんな爆発に巻き込まれることなんて、なかったんじゃないかって。もしかしたら野草は、オレの代わりに死にそうなんじゃないかって。


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