真・祈りの巫女



271
 きこりたちがいったん降りてくれたから、あたしは試しにろうそくを立てて火をつけてみた。1番奥に聖火の代わりにする長いろうそくを立てたんだけど、実際に火をつけてみたら風を受けてすぐに消えてしまったの。きこりたちは思案の末に、祈り台の一部に穴を開けてこの長いろうそくを立てる場所を一段低くしてくれた。そんなちょっとした手間はあったけど、ようやく祈り台は無事に完成してくれたんだ。
 きこりたちにお礼を言って帰ってもらったあと、リョウも梯子をのぼってあたしの隣に座った。
「かなり丁寧に作ってくれたな。俺が乗ってもぐらつかない。正直ここまできちんとしたものができるとは思わなかった」
「あたしも。……でも、ちょっと高いのが怖いかな。ここからだと真下が見えないから」
「あそこに家が3つ並んでるのが見えるか?」
 リョウは遠くを指差しながらあたしに訊いた。だいたい5000から6000コントくらい先にリョウが言う3軒並んだ家が見える。
「うん、見えるわ」
「あの家よりも手前まで獣鬼が近づいてきたら逃げるんだ。おそらく夜になったら家は見えないから、あの位置にも目印のかがり火を置く」
 リョウはすごく真剣な顔でそう言った。あたしはちょっと驚いてしまったの。だって、リョウが示したその場所は、西の森の出口と祈り台のちょうど真ん中くらいの位置だったんだもん。獣鬼はそれだけ足が速いってことなんだ。
「……判ったわ。リョウの言うとおりにする」
「森の方でかがり火の準備が始まったな。俺は指示をしに行ってくる」
 そう言葉を残して、リョウは祈り台を降りて森の方に走っていった。あたしは祈り台のあちこちにろうそくを並べて、まずはいつもの祈りをここから行ってみる。本番まで何度かここで祈りを捧げるつもりだった。ろうそくの具合も見たかったし、神様にあたしがここにいることを知らせておきたかったから。
 途中でタキがやってきたり、守護の巫女が何人かの神官を連れてきたり、村の中もだんだんあわただしくなっていった。影が現われるのは日が沈んで月が顔を出した直後。あたりが暗くなるにつれて、村人や狩人たちの緊張も次第に高まっていく。
 村人のすべてが避難して、再びリョウが戻ってきてくれてからしばらく ―― 。西の森に最初の異変が訪れていた。


272
 西の森の沼まで続く道には今はかがり火が焚かれて、あたりを夕闇ほどの明るさに照らし出している。もともとそれほど広い道ではなかったけど、何度か影が通ってそのたびに少しずつ木々をなぎ倒していたから、遠くからでも意外に広く見通すことができた。道のあたりに人影は見えない。でも、何人もの狩人が近くに隠れて様子を伺っているのは明らかだった。
 あたしは祈り台に座って、いつでも祈りを始められるように既にろうそくを並べ終えていた。すぐ隣にはリョウが立ってる。そのうしろにタキがいて、リョウが教えてくれた名前をすぐに書きとめられるように筆と紙を用意している。月が出てからの時間がものすごく長かった。あたしも、ほかの2人も、まるで息をするのを恐れるかのように静まり返っていたの。
 緊張するあたしたちを最初に震わせたのはその光だった。今はかがり火の光をわずかに反射してより深い闇を際立たせている沼の水。その水面の上あたりに、かがり火とは明らかに違う種類の光が生まれたんだ。
「来たな」
 リョウが短くつぶやいた声には誰も答えなかった。光は丸く歪みながら広がっていって、木々の高さの2倍程度の大きさになったとき微妙に色を変えながら蠢動した。光は水面に垂直に立つ円盤のような形をしていたの。そして、その中央から、いきなり何かが出てきたんだ。
「……なんだよあれ。……何もないところからなんで……!」
 円盤の中央から出てきたのは、何か長い角のようなもの。それはみるみるうちに長く伸びていったの。円盤の向こう側には何もないのに。まるでそこにドアでもあるみたいに、細長い何かと、やがてそれより何倍も大きな身体が出てきたんだ。しかも宙に浮いてる!
「やっぱりあいつが先頭だな。……形と名前を覚えろよ。あの獣鬼の名前はクレーンだ」
「クレーン……?」
 あたしのつぶやきにリョウは無言でうなずいた。リョウのうしろでタキがあわててクレーンの名前と身体の特徴を書き記している。
「クレーンはあの長い腕で重いものでも簡単に持ち上げることができる。おそらくあいつがほかの獣鬼を運んで穴を突破するはずだ。まずはあいつを止めなけりゃならねえ。クレーンさえ動けなくすれば獣鬼は穴を突破できないはずなんだ」
 リョウがそう言い終える頃には、クレーンはその奇妙な全貌を現して、地上にゆっくりと降り立っていた。


273
 クレーンが移動を始める直前から、あたしは祈りを始めていた。集中力を高めて神様の存在をより近く感じられるように意識を向ける。その途端、あたしの中にすさまじいほどの邪念が割り込んできたの。あたしはその邪念に負けないように、心の中でクレーンの名前を繰り返しながらその動きが止まったところをイメージしていた。
 雷のようなクレーンの咆哮と地鳴りが邪念とあいまってあたしの心を撹乱していく。祈りはまだ届かなくて、クレーンは誰にも邪魔されないまま森の入口へとたどり着いていた。穴の手前で止まったとき、何人かの狩人たちがわらわらと飛び出してくるのが見えた。その姿が見えたのか、クレーンはその長い腕を更に長く伸ばして振り回し始めたの。その動きに狩人たちは近づくことができなかった。あたしは腕の動きを止めるように祈っていたのだけど、そのとき再びタキの声が割り込んできた。
「あれは……? ブルドーザか?」
「……いや。似ているが違う。あれはローダだ」
 見ると、沼の光の円盤から再び何かが出てきていた。タキが言うとおりブルドーザに似てる。だけどあたしはその名前の方に聞き覚えがあって、思わず口を挟んでしまったんだ。
「ローダって? リョウにいろいろ教えてくれたおばあさんの?」
 リョウは一瞬何を言われたのか判らないみたいだった。
「それはヨモ・ローダだ。今出てきたのはホイール・ローダ。……いいからこっちのことは気にするな。おまえはクレーンに集中しろ!」
 そうリョウに一喝されたから、あたしはできるだけリョウを気にしないようにクレーンの動きを観察しながら祈りを注ぎ続けたの。
 クレーンは身体の上半分を回転させて、1本だけある長い腕を振り回している。腕の先の方に紐のようなものがついていて、更にその紐の先端にあるものが秩序なく揺れて狩人たちをなかなか近づかせなかった。腕の逆側から魂が収められた甲羅に近づこうとしても、甲羅そのものが回転してるから容易に近づけないんだ。あたしは焦る気持ちを押し殺して、とにかく腕の動きを止めなきゃって、ただそのことだけに集中する。
 やがて2つ目の獣鬼ローダが近づいてくる。ローダはクレーンに群がる狩人たちを蹴散らして、穴の手前で動きを止めた。


274
 集中が乱れるのは、けっしてリョウとタキが傍で会話しているせいじゃなかった。本当に集中してしまえば、あたしはまわりのことなんか一切感じなくなるもの。クレーンに意識を向けると必ず襲ってくる獣鬼の邪念。集中すればするほど邪念は執拗にまとわりついて、あたしの意識を撹乱して、それ以上触れていようとする気力を奪っていく。
 まるで汚泥の中に放り出されているみたい。べっとりとまとわりついて、悪臭さえ漂ってくる。これは比喩じゃなくて本当に悪臭がするんだ。現実の悪臭なら鼻をつまめば和らぐけど、心の悪臭にはそんなことをしても無駄だった。何にたとえることもできない、今まで嗅いだことのない嫌な臭い。獣鬼との心の距離が近づけば近づくほど、汚泥が肌にまとわりつく嫌な感じと強烈な刺激臭にあてられて、頭がクラクラしてくるの。
 遠くに見えるクレーンは、ローダが近づいてくると動きを変えた。ローダの方に長い腕を向けてその大きな身体を持ち上げようとしているのが判る。その隙を突こうと狩人たちがクレーンの身体にまとわりつく。1人の狩人がクレーンの甲羅のあたりまで上っていたけれど、ローダを持ち上げたその動きに振り回されて滑り落ちそうになっていた。
(ダメ! 止まって! お願い止まってよ!!)
 クレーンの動きはそれまでよりはずっと緩慢だったけど、でも止まることはなくて、とうとうローダを穴の反対側へ下ろしてしまったんだ!
「クソッ! ダメか」
 あたしが絶望にふっと気を緩めたときリョウのその声が飛び込んできた。視線でローダの動きを追うと、ローダがまっすぐにあたしの方に向かってこようとしているのが見えたの。
「出口の光が小さくなってるな。おそらくこれ以上は出てこないだろう。タキ、今まで出た獣鬼の名前を復唱してくれ」
「順番にクレーン、ローダ、ショベル、そしてブルドーザだ」
「よし! 俺はローダを止める。……俺があのかがり火を突破されたらこいつを逃がせよ!」
 そう言って、リョウはあたしを振り返りもしないで、ローダめがけてまっしぐらに駆け出したんだ!


275
「リョウ! 待って!」
 あたしの叫びは既にリョウには届かなかった。ローダは両方の目に強烈な光を灯して、すさまじい勢いでまっすぐにあたしを目指してくる。リョウはローダを止めようとしているんだ。あたしの祈りはまだ神様に届いていないのに。
 まるであの夢の再現を見てるみたいだよ。あたしの祈りは通じなくて、リョウはまた死んでしまう。……嫌。そんなのぜったいに嫌! あたしはもう2度とリョウを死なせたりしない。リョウを獣鬼になんか殺させないよ!
 あたしはもうクレーンのことは忘れていた。ローダの名前を呼びながら必死に祈りを捧げたの。ローダ、お願い止まって! 神様、お願いローダの動きを止めて ―― !
  ―― リョウの命を助けて!!
 リョウとローダの距離はかなり近くなっていて、ほんの数瞬のうちにリョウはローダに轢き殺されてしまいそうだった。でもそのとき、ローダが不意に動きを止めたの。ローダの足はまるで車輪のように回ってたんだけど、車輪の回転はそのままで動きだけが止まったんだ。
 奇妙な咆哮を上げてあがくローダ。足の車輪は空回りして土埃を巻き上げている。リョウが最初少し用心して、でもすぐに近づいてローダの身体によじ登り始める。あたしは祈りが通じた喜びよりも再びローダが動き始めるのが怖くて、必死になって祈りを続けた。今ローダが動いたら間違いなくリョウの命はなくなってしまうから。
 それはあたしとローダ、そしてリョウとの命をかけた戦いだった。その戦いは、やがてローダが咆哮を止めたことで不意に終わりを告げた。ローダの目が光を失っていく。リョウはローダの甲羅の中に入り込んで、魂を抜くことに成功したんだ。
「祈りの巫女!」
 気がつくと、タキはいつの間にか祈り台の上に乗って、あたしの腕を引いていた。ローダに視線を移してその意味が判った。あたしが夢中になって祈りを捧げている間に、ローダはいつの間にか目印のかがり火を超えてしまっていたんだ。
「祈りの巫女……やったんだな。とうとう祈りが通じた……!」
 その声にあたしもほっとしかけたけど、まだ戦いは終わってないことを思い出して、遠くのクレーンを見つめた。


276
 クレーンは今、新しく出てきた獣鬼を持ち上げようとしているところだった。クレーンほどではないけれど長い曲がった腕を1本持った獣鬼だった。リョウは既に森の方に向かって駆け出している。
「タキ、あの獣鬼の名前は何?」
「ショベルだ。あの腕がクレーンよりもずっと自由に動く」
「判ったわ。タキは台を降りていて」
 短い会話のあと、あたしはショベルの名前を何度か繰り返して記憶した。それからクレーンの動きを止める祈りをする。でも、それだけではダメなのがすぐに判ったの。クレーンの周りを最後に出てきたブルドーザが動き回っていて、クレーンが止められたとしても狩人たちは容易にクレーンに近づくことができなかったから。
 あたしはブルドーザを止める祈りを始めた。さっき祈りが成功したときの感覚を思い出そうとしたけれど、そのときは夢中で何がなんだか判らなかった。ただ1つ判っていたのは、あたしのリョウを助けたいという想いが神様に通じたのだということ。ブルドーザはリョウを殺した獣鬼。この獣鬼を今殺せなければ、リョウは再び獣鬼に殺されてしまうかもしれないんだ。
  ―― もう2度とリョウをブルドーザに殺されたくない。あんな悲しい思いは2度としたくないの!
 そのとき、ブルドーザは動きを止めた。すぐに近くにいた狩人たちの何人かがブルドーザの身体に群がっていく。ブルドーザもローダと同じように目に光を灯していたのだけど、その光がすうっと消えて遠くで見ていたあたしにもブルドーザが死んだことが判ったの。きっと狩人たちはあの草原で死んだブルドーザの身体で何度も魂を抜く練習をしていたんだ。
 残った獣鬼はあと2つ。クレーンは腕を長く伸ばして、ショベルを穴の反対側へ下ろしているところだった。たぶんバランスが悪いから、クレーンも慎重に作業していて思いのほか時間がかかってるんだ。今までの祈りでかなりこつを掴んでいたあたしが祈り始めると、ショベルの身体が地面に着くか着かないかのところでクレーンは動きを止めた。
 ショベルから少し離れたところでリョウが見守ってる。クレーンに群がった狩人たちが競うようにクレーンの魂を抜く。
 クレーンの目から命の光が消えた次の瞬間、クレーンはバランスを失ってゆっくりと横倒しになっていったんだ。


277
 クレーンが倒れたとき、その腕に吊り下げられていたショベルは着地寸前だったからほとんど落下の衝撃を受けなかったはずだった。だけど倒れたクレーンの腕がショベルにのしかかって、ショベルは動けなくなっていたの。今までの低い咆哮とは違う高い悲鳴をショベルは上げて、必死でクレーンの腕から逃れようとしているのが遠くで見ていたあたしにも判った。
 闇夜を切り裂くすさまじいショベルの悲鳴。近くで聞いていたのだとしたら、あたしも耳を覆いたくなっただろう。そんなショベルにリョウが近づいていったから、あたしは一気に緊張したの。あわててショベルの動きを止める祈りを始めたけど、でも祈りの効果が現われるよりも早く、リョウはショベルの甲羅の下から魂を抜き取っていた。
 獣鬼たちの咆哮も悲鳴も絶えて、一瞬の静寂が訪れる。でもその次の瞬間、静寂は狩人たちの歓声に入れ替わっていた。あたしはまさかと思って沼の光の輪を見たけれど、獣鬼たちが死んだのが判ったのか、円盤は小さくなってすぐに消えてしまったんだ。それを確かめたあとあたしは心の底からほっとして、一気に身体の力が抜けていったの。その場に崩れ落ちるように倒れてしまって、タキがあたしを呼ぶ声がすごく遠くに聞こえた。
 それから少しの間、あたしは意識を失ってしまったみたいだった。
 気がつくと、あたしは暖かい感触に包まれていた。この暖かさはよく知ってるよ。この腕も、この匂いも、あたしが1番大好きな場所だったから。
「気がついたな」
 声に顔を上げると、リョウはすごく優しい微笑であたしを迎えてくれた。リョウは祈り台の柱にもたれて、気を失ったあたしを胸に抱きかかえていてくれたの。あたしはまだ少し頭がボーっとしていて、リョウの腕が温かいのが嬉しくて、だから少しの間リョウの腕の中から抜け出さないでいたんだ。リョウもきっとあたしが疲れてると思ったんだろう、そのまま抱きしめていてくれた。
「よく、やったな。……ありがとう」
 リョウがそう言ったとき、あたしはとつぜん悲しくなった。なぜなら、あたしは自分の祈りがどうして通じたのか判ってしまったから。
 ……守護の巫女が言った通りだった。あたしはもう既に1度、禁忌の枠を踏み越えてしまった人だったんだ。


278
 あの時あたしは、リョウを失うのが怖かった。だから神様に祈ったの。 ―― リョウの命を助けて欲しい、って。
 それはあたし自身の願いだった。自分以外の誰かのためでも、村のためでもない。あたしは自分の願いを神様に訴えたの。自分に関する祈りの力は強い。だから祈りは神様に通じて、あたしはリョウを失わずにすんだ。
 自分の祈りをあたしは戒めていたはずだった。それなのに、あの時あたしはまったくためらわなかったんだ。……守護の巫女が言った通りだよ。1度禁忌を踏み越えてしまった祈りの巫女は、再び禁忌を踏み越えないとは信じられないんだ。
 今はいい。リョウの命を救うことが直接村を救うことにつながるから。だけど、これから先、あたしは祈らずにいられるの? もしもリョウが狩りで死にそうなほどの怪我を負ったら、あたしは自分の願いとして神様に祈りを捧げずにいられるの……?
「リョウ……」
「……ん? どうした?」
 あたしの小さな呟きに、リョウは優しく答えてくれる。あたしはもう2度とこの人を失いたくない。
「なんでもないの。……ごめんなさい。リョウも疲れてるのに」
「たいして疲れてない。ここから西の森まで往復走っただけだからな。ほかの狩人の方が何倍も疲れただろ」
 あたしが身体を起こしたそのとき、急にあたりが騒がしくなったの。たぶん神殿にはもう影の全滅は届いていて、だから村人もそろそろ村へ戻ってきているのだろう。だけど周囲の騒がしさはそれとは違うみたい。話し声の中にあたしの名前も聞こえたから、あたしは祈り台の上から顔を覗かせてみたんだ。
「あ、祈りの巫女! ……やっぱりここにいるじゃないか」
「どうしたの? なにかあったの?」
 あたしの顔を見て困惑する神官たちの様子が普通じゃなくて、あたしは訊いてみた。神官たちは戸惑ったように顔を見合わせてたんだけど、やがてそのうちの1人があたしに言ったの。
「とりあえず、祈りの巫女はタキと一緒に神殿へ戻ってくれないかな。……オレたちも何がなんだか判らなくなってるんだ」


279
 訳も判らないまま祈り台を降りると、リョウはあたしに断って狩人たちのところへ行ってしまった。西の森の道、狭い範囲での攻防は激しかったから、やっぱり何人かの狩人は怪我をしたみたい。あたしが大丈夫なのが判ってリョウはそっちの方が心配になったんだ。迎えに来た神官たちはほとんど説明らしいことをしてくれなかったから、あたしは神殿への道々でタキに訊いてみたの。
「狩人は何人くらい怪我をしたのかな。大怪我をした人はいなかった?」
「ちゃんと調べてあるよ。……それほど大きな怪我をした人はいなかったみたいだね。詳しいことはこの紙に書いてあるから」
 タキはすっかりあたしの行動パターンを判ってしまっているみたい。今日はもう遅いけど、でも少しくらいなら祈る時間もあるかもしれないから、あたしはタキにお礼を言って紙を内ポケットにしまった。
 あたしたちが表通りを通る頃には避難していた人たちはほとんど家に帰ったみたい。それでもすれ違う数少ない人たちは、あたしの顔が見えると「ありがとう」って声をかけてくれる。声はかけないまでも、人の視線が変わっているのにあたしは気がついたの。村のみんなはあたしが村に降りて祈りを捧げたこと、その祈りが通じたことを、素直に喜んでくれていた。
 みんながあたしにあまり声をかけられなかったのは、きっと先を歩く2人の神官が何かにおびえたように足を速めていた事もあるんだろう。何度かきっかけを見つけて声をかけたんだけど、そのたびに2人の返事は同じだった。
「とにかく神殿へ行ってみれば判るから。……本当に判らないんだ。どうしてあんなことになってるのか」
 あたしが知りたいのはその「あんなこと」の方だったんだけどな。理由なんか判らなくても、何が起こっているのかくらい教えてくれてもいいと思ったの。でも、あとから考えたら、2人はあたしに先入観を植え付けたくなかったのかもしれない。2人は本当に混乱していて、自分自身で何かを判断することを恐れていたのかもしれない。
 やがて神殿までたどり着いたとき、あたしはすぐに守護の巫女に迎えられた。
「よく無事で戻ってきてくれたわ。影を退けてくれたことについては改めてお礼を言わせてもらうけど。……帰って早々で申し訳ないんだけど、こちらに来て欲しいの。私もどう判断していいか判らないことが起こってるのよ」
 守護の巫女すらも自分で判断することができないなんて……。促されて、あたしは神殿前広場へとつれて来られていた。


280
 神殿前広場では今、夜だというのにここにいる巫女と神官のほとんどが集まって、ひそひそと話しながら視線を合わせていた。みんな、何かに怯えてでもいるかのように静かで、声を荒げている人はまったくいない。そんな人の輪の方へ近づいていくと、あたしに気がついた人はみんなちょっと驚いた顔をするの。そして隣の人をつついたり、互いに顔を見合わせたりするんだ。まるであたしのことすら恐れているみたいに。
「みんな、祈りの巫女が来たわ。道をあけて」
 守護の巫女はけっして大きくはないけどよく通る声でそう言った。でも、それすらもほとんど必要がないように、みんなすーっとあたしの前に道をあけてくれるの。あたしはうしろにずっとついてきてくれているタキと顔を見合わせた。タキも訳が判らないという風に首を振る。その表情も不安そうで、あたし自身も同じ表情をしていることが判った。
 石段を上がって、閉ざされた神殿の扉の前で足を止める。そこには守護の巫女付きの神官の1人、セリが立っていた。
「中の様子は?」
「変わってない。物音ひとつしないから、おそらくまだ目覚めてないんだろう」
「判ったわ。あなたも一緒にきて。……祈りの巫女、なにも説明しないでごめんなさい。とにかく先に中にいる人を見てもらいたかったの。……おそらくあなたはとても驚くと思うわ」
「……中に人がいるの? あたしが驚く人って、いったい誰? 眠ってるって……」
「見てもらえば判るわ。……少なくとも、私たちがどうしてあなたを待っていたのかは判ると思うわ」
 そう言って、守護の巫女は神殿の扉を開けた。
 神殿の中はいつもよりもずっと明るかった。天窓から月の光が差し込んでいることもあるけど、それ以外にろうそくやランプがあちこちに置かれていて、夜なのにかなりの明るさを保っていたの。その明かりの中央に横たわってる人影がある。見てすぐに1人じゃないことは判ったけど、近づいていくとそれが2人の人間なんだということが判った。
 あたしは床に置いてあったランプを持って2人の顔を照らしてみる。そして、そのうちの1人にあたしの目は釘付けになっていったんだ。


扉へ     前へ     次へ