おはようございます、黒澤弥生です。
毎日連載小説「真・祈りの巫女」は11月21日をもって終了したのですが、翌日よりあとがきを配信しています。
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さて、今日もお読みくださっていた方から暖かいご感想をいただきましたので、お1方のご感想を掲載させていただきたいと思います。
おとわさん【一部抜粋】
この祈りの巫女シリーズを読み始めた当初、
このように奥深い物語が展開しようとは予想すらしていませんでした。
第一作、第二作のほのぼの路線のまま、第三作が終わるのかと思っていたら、
あの怒濤のような災厄の連続でしたからね。
狩人のリョウが死んだときは、正直、
「そーげーなーバーカーなーっ(TOT)!!!嘘だといってー!」と
自分の喉を掴んで叫んでおりました。
亡くなったといえば、マイラ夫妻に始まり、
ユーナちゃんの両親や多くの村人の死に心が痛みましたが、
運命の巫女とセトの死に様にはパソの画面の前でのたうち回りました。
彼らの絆というか執着というか、意地というか、
巫女と神官という関係の一言では言い表せない複雑さを見た思いです。
愛する家族ではなく、仕事上のパートナーとともに亡くなるって、
私たちの生活の中でもあり得る話ですよね。
自分ならどうするだろう。どんな思いを残して死んでいくだろう。
そう考えると、切ないような納得できるような、妙な感じです。
(自分の死を予感していたであろう運命の巫女の意志の強さには脱帽ですよ)
主人公のユーナちゃんの心の変遷や周囲の人々との温度差や距離感に
ヤキモキすることも多かったですけど、
これはやはり主人公が十代の前半から半ばの多感な世代であることを考えれば、
避けられなかった軋轢でしたよね。
自分の仕事に対する責任だけでなく、その影響力まで自身に納得させるのは、
ものすごいプレッシャーだと思うのですよ。
大変な仕事をしているんだという自覚は、仕事をこなしているうちに理解しますが、
そこで自分が行使できる力の大きさ、役割の重大さを知ったとき、
その重みに耐えたり、はね除けたりするだけの強さまで
持ち合わせているとか限りませんから。
リョウとの関係は、キャーキャー騒ぎつつそれほど心配していなかった私ですが、
影の国での戦いでのユーナちゃんの混乱ぶりと自分の中にある良心との戦いには、
本当に手に汗握り、固唾を飲んで見守っていました。
ユーナちゃんが自分の中に礎となる「覚悟」や「軸」を
僅かにでも見出してくれたときには、本当にホッとしましたよ。
人間って一生かけて自分の人生に責任と覚悟を持つことが生きることだと思うのです。
(私はまだまだ自分の人生を性根から覚悟して生きていない気がしますが/汗)
逃げたほうが楽だし、辛い思いをしなくて済むし、苦しまなくていいしと、
誰もが思うことですが、結局、逃げた先で同じような困難に行き会い、
同じような試練を何度でもぶつけられるものです。
乗り越えかたを学んだ後なら、それを試練とは感じませんが、
逃げ回っていたらいつまで経っても試練は試練であり続けるわけです。
ユーナちゃんは自分の役割を覚悟しましたし、
それに伴う苦痛を乗り越える過程でリョウと向き合ったことで、
自分の弱さや伝えねばならないことを十分に理解したと思います。
それがより良い未来へと、より優しい思いへと繋がり、
細くても永い、人の絆として歴史に刻み込まれていくのではないでしょうか。
そう考えると、ユーナちゃんは禁忌を犯しましたが、
歴代の祈りの巫女の中で、最も強く光り輝いた巫女ではなかったかと思います。
私は少女・少年漫画風の小説も私小説も、およそなんでも読むほうですが、
多くの少女漫画風の小説は読んでいる最中は面白くても、
読み終わった後の感覚が何も残らないことが多いのですよ。
作品の随所に散りばめられている「萌え」記号に反応しているだけで、
作品のストーリーそのものに酔っているわけではないってことですね。
ですが、この「祈りの巫女」シリーズは、
読み終わってからも何度も何度もシーンを思いだし、
スルメを噛むようにジワーっと色々なことを考えます。
それこそ、この感想を何回書いても終わらないくらい、
読み返すたび、思い返すたびに多くの感情が噴き出してきます。
感想という「文章」では表現し切れない感情でして、
それを「言葉」にした途端に陳腐化してしまいます。
私のボキャブラリーの貧困さもありますが、
感じ取ったことをお伝えし切れないのが歯がゆくてなりません。
ただ、ハッキリと言えることがあります。
この作品を、この時期の私が読むことに意味があったのだと。
五年前ではなく、五年後でもない。今、この2004年という時期に
およそ二年七ヶ月という歳月を費やされて書かれたこの作品を読んだことに、
自分でも想像もつかないほどの深い意味がある気がしてなりません。
きっと、一年後も十年後も、私はこの作品を憶えています。
他の人はよくある少女小説だと言うかもしれません。
ですが、ユーナちゃんが辿った苦闘を読みながら
一緒に苦悩を味わったことに意味を見出している私には、
よくある小説だとは思えないのです。
この作品を頭を悩ませて書かれた黒澤さんにとても感謝しています。
「祈りの巫女」シリーズ三部作を読むことが出来て良かった。
今、完結した作品を読み返して、改めてそう強く感じます。
「祈りの巫女」三部作を書いてくださって、本当にありがとうございました。
私は主人公をはじめ、作品に登場するキャラクターたちに出逢えたことを
何よりも深く感謝しています。
→私が書いた「祈りの巫女」という小説はどこにでもよくあるお話です。
(のっけから否定するんかい!/爆)
異世界の架空の村という巨大な「嘘」を舞台に、願いをなんでも叶えてしまう大きな超能力「祈り」を持った主人公が、ひたすら自分の幸せだけを求めて生きるという、ご都合主義満載のSF少女小説なんですよね〜。
物語のベースそのものが「嘘」ですから、この「嘘」をいかに「本物っぽく」見せるかというところで頭を悩ませていたような感じがありまして。
そこで、主人公を含めて登場人物たちにはできるだけ「普通の人間らしく」行動してもらいました。
ユーナは困難に出会ったらまずは逃げました。
マイラが死んだときにはリョウに感情をぶつけてライの存在に逃げましたし、両親が死んだときには感情を閉ざしてオミの世話をすることに逃げましたし、その結果リョウが死んだときには人との関わりを絶って祈りに逃げました。
それが人間の弱さで、きっと誰にでも同じような弱さはあると思うんですよ。
でも、逃げ続けたら待っていたのは村人の大量虐殺で、影に狙われていたユーナは否応なしに立ち向かわなければいけなくなりました。
影の世界でユーナを支えたのは村人たちの「祈り」でしたけれど、それまで祈りの巫女を罵倒し頼ることに逃げていた人たちにとっては、それこそが困難に立ち向かうための自分との戦いだったんですよ。
人間はひたすら自分の都合だけで生きているものだ、という意味では、この小説は本当にどこにでも転がってるお話だったような気がします。
(命の巫女たちもけっしてユーナを助けるために村に来た訳じゃないですしね。作中には出てきませんが、リョウも村に来る前はかなり困難から逃げてましたし/笑)
そのことが、おとわさんにこの物語に共感していただけて、何かを考えるきっかけになっていのかもしれないですね。
ほかにも、私が書かなかった(書けなかった?/笑)ところまで深く読み取っていただいてすごく嬉しかったです。
おとわさん、ご感想および掲載を快く承諾してくださいまして、本当にありがとうございました。
明日もあとがきの続きを配信します。
もしも感想などありましたら、ぜひメールでお寄せくださいませ。
許可をいただけましたら、このメルマガに紹介させていただきたいと思います。
では、また明日。
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