あたし、ただ驚いて、呆然として、先生が出ていったことにも気付かなかった。
 前の席のよっこの呼ぶ声で、あたしはようやくわれに返ったの。
「ひら、かえろ」
「…え?」
「今日は全校授業なし。若原のおかげだね。まあ、今日の授業なんてあったとしてもテスト返しだけだったけどね。親にしかられるのが1日伸びたよ」
 見回すと、クラスのほとんどが、帰り支度を始めていた。
 あたしも、鞄を持って、よっこと一緒に教室を出たの。
 校門でよっこと別れて、あたしは1人で家に帰っていた。
 お母さんにいろいろ聞かれたけど、あたしは事情を話すのもそこそこに、自分の部屋に駆け込んだ。
 帰り道の間中、あたしは若原君のことを考えていたの。
 若原君との最初の記憶は、入学式のとき。
 新入生代表、1年6組、若原聡。
 はい、って答えた若原君の澄んだ声。
 あたし思わず振り返っていた。
 すっと長身で、学生服がよく似合って…
 短い髪をきっちりと切り揃えていて、少し浅黒い肌が、ライトに映えてきれいだった。
 たぶんあたしが若原君を意識した最初の時。
 挨拶の声はよどみがなくて、あたしはまるで音楽でも聞いているかのように、若原君の声に聞き入っていた。
 堂々として明るい声。
 この学校に来てよかったって、その時初めて思ったの。
 同じクラスになれてよかったって。
 第1希望は音楽だったのに美術クラスにいれられちゃって、ちょっと不運だったと思ってたのに、それが若原君と同じクラスになれた原因だったから、あたしはそんな不満もすっかり忘れていた。
 苦手な美術も好きになれそうな気がしたの。
 教室ではあたしは目立たない存在。
 だからこのことは誰にも言わなかった。
 自分が平凡だって判っていたから。
 若原君は輝いてた人だから、あたしは若原君の恋人には不釣合だったから。
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