放課後アドベンチャー


 第1話 オレの理想
 
 

 オレの通う道場は、A市から電車で約十分、O駅から徒歩十五分程行った、住宅街の片隅にあった。冬休み、午後練など始めてみれば、竹刀の打ち合いなども終わるのは夕方の六時。風景は黄昏を通り過ぎ、夜のたたずまいを見せ始める。
「話って、なに?」
後に束ねた長い黒髪。一つ後輩のまだ十六に満たないであろう、うつむいた少女。黙ってられていても仕方がないので、オレはそう呟いてみた。まっ暗闇の、道場の窓からの明かりで、辛うじて顔が見える程度の明るさ。オレにはいつも、この時間が無性に耐え難かった。
「あ、あの、あたし……釜本君が好きです。もしいやでなかったら、おつきあいしていただけませんか……」
言葉の最後の方は、聞こえやしなかった。でも、ここまで言ってくれれば、オレにも切り返しようがあるってもんだ。オレは勿体振るように、少しだけ間を置いて言った。
「悪いけどオレ、理想が高いんだ」
 彼女は泣いていたのかも知れない。それを確認するまもなく、少女は走り去って行った。彼女は剣道の筋も良かった。顔も見られる方だ。頭もいいんだろう。だけど、一つだけクリアできない点がある。それは……
「一郎」
 思いっきり聞き覚えのある声が、背後からオレを驚かせた。
「逸実……見てたのか?」
 オレの幼なじみにしてライバルの女。よりによって一番見られたくない奴だってのに。
「見てたから何だって? あたしゃ誰にも喋らんよ。一郎が道場のアイドルの榊ちゃんを振っただなんてね」
 背は小さいし、女言葉使わない。髪型は、さっきの女と同じと言えば言えないこともないが、彼女は、自分の髪が美しいことを十分に意識していて長く伸ばし、手入れもちゃんとしてるってのに、こいつの場合は、面度臭くて切らずにいたらどうしようもなく伸びちまったんで、仕方なくうしろで縛ってるって感じの長髪だ。どうやったらこんなに女らしくない女ができるのか、はっきりいってオレには興味があるね。
「喋らなきゃ見てていいってか?」
「そうは言ってないさ。悪かった。早く帰ろうぜ。いつもの電車逃しちまうぜ」
「ああ」
 幼稚園も一緒。小学校、中学校、成績も変わらなかったので、高校も一緒。趣味も同じだったから道場まで一緒。どういう訳か、逸実とは離れられない。幼稚園のころからけんか友達だった。今でもたいして変わらないな。けんかが剣道になっただけだ。
「……ところでさ、榊ちゃんに言ってた、あんたの理想って何だよ」
 軽く汗をふいて着替え、道着と竹刀を背負ったオレたちは、O駅の繁華街を外れた裏通りを歩いていた。暗くて不気味な通りだが、こっちの方が近道なのだ。表通りと比べて二分は確実に違う。
「第一に強いこと。剣道も気もな。簡単に言えばお前んちのかあちゃんみたいなのが理想だ」
「剣道は知らんけど気だけは強いな、うちのお母さんは。でも何でさ」
「オレ、釜本家の一人息子だもん。うちの会社とか切り回すのに、何もできない女は困るんだ。それに、単にオレの趣味でもある」
「剣道は関係ないんじゃないか?」
確かに関係ないけどよ。オレとしちゃ、お前に劣るような女とはつきあえっこないんだよ。それが、お前と幼なじみになっちまったオレの意地ってもんじゃないのか? とは当然言えるわきゃない。要するに、お前とタメ張れるような女でなけりゃ、オレの気がおさまんねぇってことなんだよ。
 言葉に詰まったオレは、ふと脇の路地を振り返った。するとそこには、壁に手をつきながらふらふらと歩く男。顔は青ざめ、呼吸を荒くしていて……。え? こいつちょっとおかしいぜ。と、息を飲んだオレの目の前で、男はどさっと、その場に倒れ込んだ。
「お、おい、大丈夫か?」
駆けよって手を差し伸べようとした。が、できなかった。男の背中は血のりでべっとりと汚れ、オレは思わず、買ったばかりの白いジャンパーのことを考えて、手をひっこめた。
 男はオレを見つめ、息たえだえに唇を動かしている。オレは背筋が寒くなるのを感じた。
「……た、頼む……。これを……もうすぐ奴らが追ってくる。その前に……こいつ、を……」
この血液の流れ方、はんぱじゃねぇ。
「あんた、病院に」
言いながら、オレは少しあとずさった。この男、何か持ってやがる。
「これを……」
「どうすればいいんだ」
突然逸実が、男の差し出した手に捕まれているものを受け取りながら言った。男はふるえる手で逸実の手首を握り絞め、すがるような目付きで逸実を見つめた。
「これを、……くぅ、倉橋理事長……」
 その言葉を残して、男は動かなくなった。死んだのか、気絶したのか判らない。オレはただ呆然として、そこに立ちつくしていた。逸実はすばやく男の手を振り払い、代わりにオレの手首を握り絞めた。
「しっかりしろ一郎。逃げるぞ」
「え?」
「早く!」
 逸実はオレの手を握ったまま走りだした。まるで何かとんでもない化け物が追ってでも来ているかのように、必死な形相で。しかし、その頃になるとオレの頭も働きだしたので、なぜ逸実が逃げようというのかが判るようになっていた。あの男は刺されたのだ。なぜか。それはたぶん、逸実が託されたものを男が持っていたからだ。奴ら――つまり、男を追っていた複数の人間たちは、気絶した男(あるいは死体)を見つけ、その物がないことに気付くと、あたりを探すだろう。あの男の状態からして、遠くに隠すことは考えられない。とすれば、誰かが持ち去ったということになる。その時にまだあの近くをうろついていたら……
 こいつはとんでもないやっかいものだ。早くどうにかしないと。
「一郎、このあいだ赤ん坊の死体が見つかったコインロッカーってどこだっけ」
逸実の思いがけず物騒な言葉に、オレはぎくりとさせられた。
「あれだろ。西口の。それが何だっ……」
「とにかくこいつを隠すんだよ」
 逸実はジャンパーの裏に隠したそれを指して言った。大きさはベーターのビデオテープくらいだ。あるいは本当にテープかもしれない。布の袋に入っていて、少し血で汚れている。
 追っ手の恐怖におびえながらも、オレはそれを表に出すことはしなかった。それでも、コインロッカーにそいつをしまい込んで鍵を掛けると、オレは少し安心して、息をついた。逸実は鍵を懐にしまい込み、反対側のロッカーに回って、自分の道着を放り込んだ。
「一郎お前、生徒手帳持ってる?」
「あるけど、どうすんだ?」
「ロッカーってのは二十四時間すると遺失物扱いになるからな。証明書入れといた方がいいと思うんだ。お前も道着入れときな」
 オレには逸実の考えていることが良く判らなかったが、言うとおりにした。今二人のうち、頭の回ってるのは逸実の方だ。
 歩きながら、逸実は今まで髪を縛っていたゴムをほどいた。長い黒髪が逸実の肩を舞うのを見て、オレはドキリとした。逸実がいつもと違って見えるのはきっと、この特殊な状況のせいだ。逸実は決して、オレの心臓に影響を与えるためにゴムを解いたのではないのだから。
 黒いゴムを器用に操って、逸実は鍵をひとまとめにした。逸実について駅ビルの中に入ると、彼女はまっすぐにトイレに向かった。そして入っていこうとする。紳士用に。
「お、おい」
「あ、そうか、まずいな。一郎、誰かいないか見てきてくれる?」
 逸実は紳士用トイレに入りたい訳だな。畜生! オレは今までお前が男だとは知らなかったよ! 心の中で叫んだが、無論、本気じゃないぜ。逸実の裸なんか見馴れてる。ただし、ガキのころのだけどな。
「いなかったぜ」
「一緒に来て」
 デパートのトイレだ。個室も三つはある。逸実は一番奥の個室に入ると、オレも招き入れて、中から鍵を掛けた。
「誰か来たら一週間越しの便秘みたいな感じでふんばってくれ。こればっかりはあたしがやる訳にいかないから」
オレがうなづくと、逸実はまるで、張り詰めていた糸が切れたみたいになって、洋式の便器に座りこんだ。オレはびっくりして、逸実を支えようと手を伸ばした。
「逸実」
「大丈夫。ちょっと気がゆるんだ。安心したから……。一郎、これを、ペーパーのロールの中に入れて。一番下のじゃなくて、二番目の」
 これで、逸実の考えが少し、判った気がした。どうして紳士用トイレに入ったか。トイレットペーパーの使用頻度は当然、婦人用の方が高いはずだ。ペーパーの中に隠すなら、紳士用の方が見つかる可能性が少ない。
 それにしても、ここのペーパーは下から使っていって、使いおわったら上のが落ちてくるしかけになっているやつなんだよな。一番下のを除けば上に重なっているのは四つ。その全部を上からだして、下から二番目の芯の中に入れるなんて、逸実は何て事を言うんだ。持ち切れなくてペーパー二つ転がしちまったぜ。使う奴もかわいそうに。まさに、知らぬが仏ってやつだな。
「逸実、これからどうする?」
 脱帽だ。オレは逸実に下駄を預ける事にした。どう考えたって、逸実の方が修羅場には強い。オレだって馬鹿じゃないから後でいい案が浮かぶかもしれないが、今はダメだ。頭がパニックしていて何にも浮かんで来やしない。
「帰ろう。いつもと違う行動をして、どこでつっつかれるか判ったもんじゃないからさ。一度家に帰って、飯食ってからうちに来てくれる?」
「判った」
「それじゃ、早いとこ出よう」
 出る前に、逸実は自分の髪の毛を拾った。縛っていた髪をほどいたせいで、結構何本か転がっていたからだ。この辺もオレには真似できない。オレは竹刀を二本持って、外に誰もいないことを確認した後、逸実の手を引いてトイレを出た。
 オレはしばらく、逸実の手を離さなかった。

 逸実の家は、母一人子一人だった。経理事務所を経営していた親父さんが、逸実が中学に上がる直前になくなり、母親が事務所を引き継いで今に至っている。しっかりしたお袋さんで、まさにオレの理想にピッタリの人だ。年末で事務所も忙しいというので、オレが行ったとき出迎えてくれたのは逸実一人だった。
 前に逸実の部屋に入ったのはもう一年以上も前だったが、こいつの部屋は少しも変わっちゃいなかった。一枚だけ残った今年のカレンダーは、オレのと同じ奴だ。去年の年末に道場で配ってた奴。
「お前の部屋、模様替えとかしないのか?」
逸実はちょっとけだるそうにベッドに腰かけていた。
「そういやしてないな。高校上がるときにしたきりだ。それはそうと、一郎大学決めた?」
「オレ国立しか狙えない。だから今んとこ東大が第一志望」
「志望はできるよな、誰だって。うちも国公立だから、良くてS大」
「オレもその線だな。何だよ。また同じか」
「学部もだろ。経済」
「うちは経営、お前は経理か」
「サークルは剣道で」
「仕方ねーな」
ほんと、仕方ねーよな。逸実んちはそんなに金持ちじゃないから国立一本にならざるを得ないし、オレんちは親父様のポリシーで、国立以外は行かせてくれそうもないし、成績は変わらないから(誤解しちゃいけない。オレたちは学年で一二を争っているのだ)近いところでそんなもんになっちまうよな。この腐縁、大学まで続くってのも、いいのか悪いのか。
「なあ、逸実。肝心な話しようぜ」
「さっきノートに書き出しといたんだ」
逸実が広げたルーズリーフには、意外にきれいな文字で、いろいろ書きつらねてあった。

一、 刺された男は誰か、どういう人間か。
二、 預かりものは何か、どういう内容か。
三、 誰に渡すつもりだったか。
四、 刺した人間は誰か、どういう人間か。
五、 倉橋理事長とは誰か、どういう人間か。
六、 私達の立場は。

とりあえず、判り易くまとまっている。
「あの男が渡すつもりだったのって、この倉橋理事長って奴じゃないのか?」
「そうとは限らないよ。あいつ、『これを、倉橋理事長』としか言わなかったじゃないか。『倉橋理事長には渡すな』だったかもしれないぜ。とにかく、一は明日の新聞待ちだね。二は少し待つとして、一郎、五は判るべ」
「このあいだ試合で行ったもんな」
「聖徳学園高校の理事長だと思う。息子には悔しい思いをしたし」
「オレが仇とっただろ」
このまえの練習試合、聖徳との勝ちぬき戦で、副将の逸実は敵の大将倉橋貢との一戦で一本負けをくらったんだ。大将のオレはそいつに一本勝ちして、まあ、面目は保ったって訳だ。逸実は負けず嫌い。相当くやしがってたって訳。
「一応ほかに倉橋理事長がいないかどうか確認しないとね。それは二人で親にでも聞いてみましょうか。――そして、一番重要なの」
逸実は六を赤丸で囲った。
「はっきり言って、これだけ判ればあとは別にいいんだよね。あたしらは出来るだけ早く手を引きたい。だけど、人が一人刺された。あたしらがあれを持ってるってことがバレたら、無事でいられるかどうか判らない。とすると、身の安全をはかるためには、どうあっても不正を引きずり出さないといけない訳」
 まったく、運が悪いどころの話じゃないな、こいつは。逸実がいてくれて良かったぜ。もしあんとき逸実が先に帰っちまってたら、オレ一人でこの異常事態に直面しなけりゃならなかったもんな。ほんと、良かったぜ。
「でさ、とりあえず頼みがある」
「何だよ」
「あと二日したら、JRの遺失物コーナーへ行って、忘れ物とってきてくれないかな。道着とあれと。あれ、多分ビデオテープだと思う」
「お、おい」
「大丈夫だよ。一郎免許持ってるじゃん。行く前に鍵があるかどうか見て、鍵があれば楽勝だよ。免許証は一番信用される証明書なんだからさ。大丈夫だって」
「あの免許、学校に内緒なんだぜ。取り上げられるに決まってる。オレ、やだよ」
逸実、急にまじめな顔になって、オレを見つめた。ほんとに、今日の逸実は心臓に悪い。
「一郎。命と免許とどっちが大事?」
「い、命」
「あたし、一郎がいてくれて良かったと思ってるんだ」
 その一言だけで、もう何でもしてやるって気になっちまうのは、やっぱり、今日の異常事態のせい、なんだろうか。

 その日の夜、オレはあまり眠れなかった。目を閉じるとあの男の必死の目付きがちらついて、仕方がないので起き上がって勉強を始めた。真向かいの逸実の家を見ると、あいつの部屋も電気がついていた。そして、それは朝まで消えなかった。
 新聞屋の自転車の音が聞こえたのは四時半。親を起こさないように玄関を出ると、ちょうど逸実も出て来たところだった。
「おはよう」
男物の縦縞のパジャマで、オレンジ色の半天を羽織ってる逸実。オレは自分ちの門を開けて、逸実のうちの門まで来る。逸実はオレをじっと見ていた。
「寝てないんじゃないのか?」
逸実の顔は、もろ寝不足って感じだった。
「寝たよ。三時間くらい。一郎は?」
お前って奴は……。お前が電気も消さずに寝る奴じゃないって事くらい、オレが一番良く知ってるんだぜ。
「オレもねた。今朝は寒いよな。そんな恰好でかぜ引かないか?」
「そういやしばらく引いてないな。これを機会に御目見えできるかもしれない」
オレはなにも答えず、持っていた新聞を広げた。目当ての記事は一面にでている。
「一郎んちの新聞何?」
「朝日」
「うち東京。ここじゃ目立つからさ、部活の一時間前にあたしお宅行くよ。そんときスクラップ持ってくから」
「判った。んじゃ、風邪オレにうつすなよ」
「判ったよ」

「……それじゃあ一応整理すると、まず男の名前は佐川信一。M大の研究室に勤務している。二十八才。未婚。現場には誰かと争ったような跡があって、刺し傷は、左の肩胛骨の下に、刃渡り十五センチくらいのナイフでつけられている。住所はK県H市。ここって、電車で二時間くらいかからないか?」
「もっとかかるよ。それで?」
「発見者はパチンコ店従業員Aさんで、七時ごろ、既に死亡していた被害者を発見して一一〇番した。警察では大学関係者に事情を聞くと共に、怨恨と物盗りの犯行との両面から、目撃者探しに周辺の聞き込み捜査を行っている。物盗りでも怨恨でもないよな」
 新聞記事を眺めながら、逸実は何か考え込んでいた。胡坐を組んで肘をついている。ほんと、女とは思えんな。
「どうした? 逸実」
「あ、いやさ、どうも状況が把握出来なくて」
オレが片膝ついて身を乗り出すポーズを作ると、逸実はオレの目をまっすぐに見ながら言った。
「ちょっと想像してみてよ。男が出てきた路地のこっち側はあたしら二人がいた。ほかには誰もいなかった。路地の向う側は繁華街。あの路地で、例えば二人の男が争っていたとするよ。そして、あの男が刺された。とすると、刺した男はどうなったんだ?」
オレは想像してみた。オレが刺した人間の立場だったら、もちろんそのまま立ち去ったりはしないだろう。品物を奪い取るのはもちろんのこと、相手は生き証人だ。とどめを刺すか、連れ去るかしていたはずだ。あのとき、男の背中にナイフはなかった、ってことは、刺した奴はとどめを刺すために一度ナイフを抜いて――
「返り討ちにあったって事か」
「うん、そうだと思う。もう一度刺そうとしてナイフを抜いたところで、男にナイフを奪われて、自分が刺されてしまった。現場にナイフはなかったんだ」
「それでいいんじゃないのか?」
「その後男は助けを求めたんだぜ。どうして人の多い繁華街じゃなくて、裏通りになんか出たんだ。一郎、あの路地の様子、覚えてるか?」
オレは首を振った。あの状況でそんな状況観察が出来るかってんだ。そんなオレを、逸実はちょっと憐れっぽく見て、溜息をついた。
「毎日通ってるんだぜ。あそこにはいろんな箱とかが積み重なってるんだ。男はすぐには動けなかったと思う。重傷の上、人を一人殺しちまったんだから。奴は箱の陰に隠れてあたりの様子を観察したと思う。どっちが安全か。もしかしたら、繁華街の方を別口の追っ手が通ったのかもしれない」
箱の陰から、奴は裏通りを覗いてみた。とそこには追っ手らしい人影はなく、のんきに歩いている学生が二人だけ。奴は、その二人にかけたんだ。
「ってことはだ、あんときあの路地にはもう一つ死体があったって事に……」
「ほかに考えられるかよ」
おい、それで逸実は平気なのか! 一つならともかく、殺人事件が二つだぜ。よくも平然としていられる――
 その時、オレは不意に、逸実の父親の死んだときのことを思いだしていた。オレも逸実も十二才だった。回りの大人が泣き叫ぶなか、逸実は心なしか笑っているようにオレには見えた。そんな逸実は一際異様で、オレは最初、逸実が父親の死を喜んでいるんじゃないか、そんな風に思った。だけど、そいつは違う。逸実は回りの大人たちが逸実を心配しないように、出来るだけ何気無く振る舞っているにすぎなかったんだ。父親の死から数えて八日目の朝、あいつは初めて泣いた。その日、オレと逸実は、学校へは行かずに近くの土手で夕暮まで話をしていた。
 父親が死んで、逸実はさりげなさを身につけた。好きな奴が親友の恋人になっても、そんなそぶりは少しも見せなかった。悲しいなんて言わなかった。
 どうしてそんな昔のことを思いだしたのか。……ああ、そうだよ。逸実が平気な訳ないじゃないか。何気無い顔をして、一番傷ついていたのは、いつも逸実だったんだから。
 見ると、逸実は黙りこくっていた。
「何を考えてる?」
「警察に言うべきかどうか」
 何だよ、その手があったんじゃないか。
「言うと問題でもあるのか?」
「相手が警察を抱き込んでるって可能性は……そうだな、たぶんないと思う。だけどあたしらが警察と関わると、あれを取り返そうって連中にあたしらのことがばれるんだ。だから、迷ってる」
「でも、問題が解決しちまえば、オレらが狙われることはない訳だろ」
「奴らが一網打尽になればね。時間がかかる。その間の身の保証さえどうにかなれば」
それなら……何とかなる。なるはずだ。
「どのくらい必要だ」
「一ヶ月。いや、どうかな。十日あればなんとか」
「ちょうど冬休みいっぱいか。オレのお袋の弟の嫁さんがいるんだけど、別荘持ってる。旧姓をもじって登録してるから、簡単には見つからないぜ。そこに行かないか」
「他人の別荘か。そこだったら、十日くらいごまかせるかもしれないな。すぐに連絡とれるか?」
「オレ叔母さんには可愛がられてるから、間違いなく大丈夫だ」
「外面のいい奴は違うぜ」
「バーカ、人徳っていうんだよ」
「人徳? 人畜無害の間違いじゃねぇの」
「こいつは」
まぁ、いいさ、軽口たたけるんだから。今のところまだ、こいつは大丈夫だ。
「ところで一郎。少し作戦なんて物を考えてみたんだけど、聞いてくれないか。で、もし穴があったらふさいで欲しい」
「OK」
 オレの理想――気が強くて、土壇場に強い女。今はまだ考えるまい。
 
 

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