永遠の一瞬
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その部屋の扉は、いつも閉ざされていた。
白い廊下の突き当たりにある白いドア。扉には赤い文字が書いてあって、読むことは出来ない。「関係者以外立入禁止」 ―― そうか、ここはあの場所だ。まだ4歳だったオレが、入ってみたくてしかたがなかった秘密の扉。
子供の身体はその小さな隙間を通ることが出来た。ドキドキしながら中に入ると、たくさんの書類といくつかのパソコン。扱い方はちょっと前の授業で習ったばかりだった。スイッチを入れて、どこをどうしたのか。入力画面に自分の名前を打ち込んでみた。
その時出てきた画面を、オレはすべて記憶したんだ。読めない漢字も映像として記憶した。どうしてそんなことが出来たんだろう。オレは部屋を元に戻して、自分の部屋に戻って、覚えたそれを全部紙に書き出した。
誰も起きてない真夜中に、秘密の紙を広げて、辞書を見ながら漢字にふりがなを振った。それでも判らない言葉はたくさんあった。その時オレに理解できたのは、たったひとつだけ。紙は小さく切り刻んでトイレに流した。
―― シーラと同じチームになりたかった。
シーラはひとつ年下だったから、本当ならぜったい同じチームにはなれないはずだった。だけどオレはどうしてもシーラと同じチームに入りたくて、つたない言葉で必死に駄々をこねた。それが悪かったのかもな。オレの学年は1年遅れて、シーラと同じチームになることは出来たけど、それからしばらくしてオレは狙われ始めたから。
これで最後か。オレは殺されて、いなかったことになる。シーラのために何も出来ないまま ――
―― ダメだ! まだ消える訳にはいかない!
オレはまだシーラが幸せになるところを見てない。まだ足りない。13年ぽっちじゃ、ぜんぜん足りないんだ。
「う……いってぇ……!」
「タケシ! サブロウが……!」
オレが引き戻されて最初に聞いたのは、シーラのその声だった。身体がズキズキ痛んで意識がはっきりしない。そのままかなり長い時間、自然に目が開くのを待った。オレの寝起きが悪いのはシーラもタケシも知ってるから、そうやってオレが努力してる間も、じっと黙って待っててくれた。
やがて目を開けると、目の前にはシーラの涙ぐんだ顔。その前にもそうとう泣いてたなこれは。真っ赤に腫れて、すっかり容貌が変わってる。
「サブロウ……、目が覚めたの?」
ちゃんと声が出せるかな。軽く咳払いをして、出来るだけ普通の声になるよう気をつけながら、オレは言った。
「目の前に女神がいるってことは、ここは天国?」
オレの言葉に、シーラはふっと笑顔を見せた。
「タケシ、サブロウが復活した」
「ああ、……らしいな」
「ほんとによかったよぉ……」
シーラは大粒の涙をこぼして、オレが寝ているベッドに突っ伏すように泣き崩れた。
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「タケシ」
シーラの頭越しにタケシに手を伸ばすと、言いたいことが判ったのか、背中に枕を当てて少し上半身を起こしてくれた。腕の痛みは感じてるけど、意識を逸らしてれば耐えられないほどじゃない。利き腕だから、反射的に使おうとしそうで、それがちょっと怖いか。シーラが左側にいてくれてよかった。おかげで頭をなでることが出来る。
「ええっと、状況はどうなってるんだ? オレが車の中で眠っちまって、そのあとどうなった? ホテル側に疑われるようなことは?」
「覚えてねえのか?」
タケシはちょっと目を見開くようにして、やがてため息をついて言った。
「お前、駐車場からフロント脇のエレベーターまで、自力で歩いたんだぜ。だからホテルにはぜんぜん疑われてねえよ」
「そうなの?」
「ああ。エレベーターの中でぶっ倒れたんだ。……ったく、たいした精神力だよ、お前は」
よくもまあ、あの状況で自力で歩けたもんだ。自分のことながら信じられないな。さては狐でも憑依してたか。
「それで?」
「今朝のうちに機材は車ごと本部に返してきた。これからオレはホテルをチェックアウトしてシーラの車を取ってくる」
「悪いね、オレが動けなくて。まだ運転は出来そうにないわ」
「さっきまで死にかけてた奴はおとなしく寝てろ」
ハイハイ、判りましたよ。……心配かけたんだろうな。タケシは何も言わないけど、ほんとは訊きたくてうずうずしてるんだろうな。オレがどうしてこういうことになったのか。本部がなぜ盗聴器を仕掛けて、オレが誰に毒矢で狙われたのか。
だけど訊かないでいてくれる。ほんと、ありがたい男だよ、お前は。
「シーラを連れてけよ。幸いオレの方は心配ないみたいだし」
車を2台も取りに行くんだからな。1人じゃ何往復もしなくちゃならない。
「午前中に一度行ってお前の車は取ってきてある。あと一台くらいなんてことはねえよ。……じゃ、行ってくる」
「判った。よろしくね」
「行ってらっしゃい、タケシ。……ごめんね」
ずっと泣き続けてたシーラも、ようやく顔を上げてタケシを見送った。軽く片手を上げてタケシが部屋を出てしまうと、シーラは振り返ってオレを見上げる。
シーラの視線は、いつもオレが恐れていた、あの表情をしていた。
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シーラと同じチームになりたいって思ったあの頃は、まさかこんなことになるなんて思ってもみなかった。一緒にいたらたぶん楽しくて、何かあったら助けてあげられる。ずっとずっと楽しく過ごしていられる。子供だったオレは、ただそれだけを思ってた。
シーラの気持ちに気付いたのって、いつだったんだろ。高校に入る前くらいかな。少なからずオレはショックで、しばらくシーラを遠ざけて、他の女と遊びまくってた。そうすることでシーラに嫌われるならその方がマシだったんだよな。タケシがシーラを好きなのは知ってたし、タケシがシーラにふさわしい男だって、オレは判ってたから。
「シーラ、少し状況を教えて。今はいつなんだ?」
シーラはずっと気持ちを隠してる。だけど視線はすべてを告白してる。オレじゃなくたって判るよ。
「うん、今は日曜日の2時半だよ。サブロウ、12時間以上寝っぱなしだった」
じっとオレを見てる。
「シーラは? 少しは寝たのか?」
オレは視線に耐えられなくて、必死で言葉を探してる。今の状況が恐ろしいから。シーラがその言葉を口にしそうだから。
「眠れないよ。サブロウが苦しんでるのに眠れる訳ないじゃない」
タケシ、早く戻ってきてくれよ。
「だったら少し寝なさいよ。オレはもう大丈夫だから」
じっと、見ている。
「……お願いだからあたしを邪魔にしないでよ。……あたし、あたしね……」
―― たぶん、シーラをはぐらかす方法はあったと思う。
オレはその手の話術はひと通り習得して、更に磨きをかけてもいたし、シーラの思考パターンはわりと読みやすいから、今までは楽にはぐらかしてきた。この状況をどうにかするくらいのこと、オレにはできる。シーラを操ることくらい、オレには簡単なんだ。
だけど ―― どうしてだろう。オレはこのとき、シーラの言葉をさえぎることが出来なかった。
ずっと気持ちを隠してきたシーラ。訳もなくオレに避けられて、はぐらかされて、邪魔にされてきたシーラ。この子は、オレが他の女と遊びまくるのを、いったいどんな気持ちで見てきたんだろう。独りで泣いたりしたのかもしれない。オレの気を引くためにタケシと仲良くして見せたりしたのかもしれない。
シーラが健気で、愛しくて、かわいそうだった。これ以上傷つくシーラを見たくなかった。シーラが幻だって、オレは知ってる。それを言わせてしまえばオレがシーラの傍にいられなくなることも。
だけど、たとえそうでも、オレはこれ以上シーラを苦しめたくなかったんだ。 ―― もういい。この13年間は、オレにはすごく楽しかったから。
「あたし、ね」
オレは表情を緩めて、シーラがその言葉を言いやすいように僅かに微笑んだ。
泣きはらしたシーラもすごく綺麗だ。
「……あたし、ずっと、サブロウのことが好きだった。……ずっと、小さいときからずっと」
オレは、時を刻む砂時計の砂が、すべて落ち切った瞬間を感じた。
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告白した直後のシーラは目をまん丸に開いて、呼吸さえ止まってる感じだ。たぶん、オレの一言を待ってるんだろう。オレは大きく息を吐いて、緊張感をほぐそうとした。だけどダメだ。オレの緊張はほぐれたけど、シーラの緊張をほぐすところまではいかない。
「……なんだかそんな科白を言われそうな予感はしたんだよな。……で? 今は違うの?」
シーラは一瞬何を言われたのか判らなかったらしい。だけどすぐに、自分が過去形を使ったことと、オレが判っててシーラをからかおうとしてることを悟ったみたいだ。ちょっと怒ったように口を尖らせた。
「なんでいつもそうなんだよ! ひとが真面目に告白してんのに!!」
それもこれもひとえにオレのキャラクターなんだよな。どうもシーラに対して真面目に振舞うのって苦手で。
「判った判った。……で、答え、聞きたい?」
オレがうって変わってシーラを覗き込むようにしたから、シーラはまた息を飲む。ちょっとためらうように視線を泳がせたけど、やがて、首を1回上下に振った。
オレも、少しだけ言葉に迷った。
「 ―― ごめんね」
そう、オレが言った瞬間は、シーラの表情はそれほど動かなかった。
たぶん、言われた言葉を飲み込むのに、かなり時間がかかったんだと思う。オレは残った左手でシーラの頭をなでて、感情がスムーズに流れるように手伝った。だんだん飲み込めてきたんだろう。目を伏せて、唇を歪ませた。
「シーラ、泣かない」
オレの言葉でようやく泣くことを思い出したのか。シーラは小さな嗚咽を漏らして泣き出した。かわいいと思う。独りで泣かせておくのがかわいそうで、オレはシーラを引き寄せて、胸を貸した。
遠慮がちにオレの胸に取り付いて、シーラはしばらく泣いた。シーラが泣くのはこれで最後だ。なんか、オレはずっとシーラを泣かせ続けてきたような気がする。
「……どうして……?」
小さな声は直接胸に響いた。
「ごめんね」
「なんで? どうしてあたしじゃダメなの?」
「……ごめんね」
「それじゃ判んないよ」
……だよな。判ってたけど、オレはバカみたいに同じ言葉を繰り返してた。
「あたしが子供だからダメなの?」
そんなの、子供はすぐに大人になるもんだ。別にそんな理由で謝ったりしないよ。
「それとも……あたしがヴァージンだから?」
……そういう理由で断わる男はあんまいないと思うけど。
「ごめんね」
オレが何も言えないことを、どう解釈したのか、それは判らない。
オレの胸に取り付いたまま、シーラは盛大に泣き声を上げた。
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オレはずっと、シーラを泣かせ続けてきたような気がする。
「少しは落ち着いた?」
だいぶ泣き声が穏やかになってきたから、オレは訊いてみた。シーラはちょっとぶうたれたみたいにオレの胸を叩いたりしてる。初恋の相手としては、オレはあんまりふさわしくはなかっただろうな。シーラも趣味が悪いよ。世の中にはシーラに似合いのいい男だって、たくさんいるだろうに。
「シーラ、傷に響いてるんだけど」
「……あたしをフッた罰だもん」
「オレが悪いのか?」
「あたしが悪いんじゃないんだからサブロウが悪いんだもん」
ああ、そうだな。シーラはぜんぜん悪くない。だったら悪いのはオレだ。オレはいつでもシーラを悲しませてた。
「……どうしてだよ。サブロウは他の女の子にはすごく優しいじゃない。誰も断わったりしたことないじゃない」
「ひょっとして、断わられると思ってなかったのか?」
「付き合ってもくれないなんて思わなかった。……なんで? どうしてあたしだけみんなと違うの?」
そんなこと言われてもな。どっちかっていうとオレの方が訊きたいよ。なんでシーラにはオレだったんだろ。あれだけ意地悪して、泣かせて、そんな奴に恋してもぜんぜん楽しくなかっただろうに。
オレが答えなかったからか、しばらくシーラはじっと考えてるみたいだった。そしてやがて、顔を上げてそう言ったんだ。
「ねえ、告白した記念に、キスしてもいい?」
あのなあ!
「ダーメ! ……どこをどう代入したらそういう答えになる訳?」
「思い出に1回だけ抱いてくれるとか」
「ぜーったいイヤだ!! たとえ明日世界が終わるとしてもお前を抱くのだけは嫌だ!」
「……なんでそんな言い方するんだよ……」
悪かったよ。だけどオレはシーラに優しくなんかできない。シーラはオレにとって、他のどうでもいい女とは違うから ――
―― シーラ、意地悪してごめんね。恋人になってあげられなくてごめんね。君の理想の、優しくてかっこよくて、わがままなんでも聞いてくれるような男になれなくて、ごめんね。
だけどオレは、世界で1番、シーラのことが好きだよ。
君に出会えて、ずっと傍にいられて、オレは本当に嬉しかったんだ。
やがて、シーラは動きを止めて、光と色を失った。
まるで砂でできた人形のように、音も立てずに、崩れてゆく。
オレが今まで見ていた風景も、少しずつ崩れて、消えていった。
オレ自身も消えて、あたりは暗闇に包まれた。
そして、一瞬のうちに、視界はまぶしい光に包まれていた。
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ぼくは、ゆめをみた。
おとなになった、タケシと、おとなになった、シーラをみた。
おとなのシーラは、とってもきれいな、かわいいおんなのこだった。
すごくながくて、すごくたのしくて、すごくしあわせな、ゆめだった。
ひかりが、とてもまぶしくて、めをあけたら、シーラがみえた。
シーラは、ぼくをみて、ふるえてた。
シーラのとなりで、タケシも、ふるえてた。
だいじょうぶだ、って、ぼくはふたりを、だきしめた。
きかんじゅうの、おとがうるさくて、せんせいと、おともだちの、こえもきこえた。
でも、こえはすぐに、きこえなくなった。
きかんじゅうの、おとは、まだきこえる。
まだ、うるさいくらい、きこえる。
シーラ、うごかないで。
シーラの、みみもとで、ぼくはいった。
ぼくが、いいっていうまで、うごかないで。
きゅうに、うでが、いたくなった。
きかんじゅうが、ぼくに、あたったみたいだ。
だけど、シーラがみてるから、いたいかおはしない。
シーラ、おねがいだから、うごかないで。
シーラと、タケシを、だきしめる。
せなかに、なにかがあたって、あつくなった。
しゃべろうとしたら、くちのなかに、あついものが、たまってきた。
ぼくは、もう、しゃべれないみたいだ。
シーラ、だいすきだよ。
こえにださないで、ぼくはいった。
いっしょにいられて、すごく、たのしかった。
もっともっと、いっしょに、いたかったよ。
タケシ、おねがい、シーラをまもって。
シーラを……ぼくの、いもうとを、まもってね。
ぼくはもう、おとなに、なれないから。
だれだかわからない、かみさま。
ぼくを、おとなにしてくれて、ありがとう。
ながくて、みじかい、ゆめをありがとう。
どうか、シーラが、しあわせになれますように。
シーラに、しあわせを、ください。
了
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